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「名言との対話」7月7日。板東妻三郎「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」

坂東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年(明治34年)12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。

1925年(大正14年)に全国の熱狂的なファンに応え、「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都に設立。勉強のために今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。11年後に解散。その後、日活、大映、松竹へ。

端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「坂妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。ダイナミックな立ち回りで人気を博し「剣戟王」の異名をとった銀幕の大スターで、大正末期から昭和初期にかけて剣戟ブームを生み出した。坂妻(坂東妻三郎)、千恵蔵(片岡)、右太衛門(市川)、アラカン嵐寛寿郎)は「四大スタア」と呼ばれていた。

サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と言われたが、死後35年を経た1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という書の中の投票では「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。その11年後の2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位、「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。いかに人気が高かったか、そして持続していたかがわかる。

阪妻が一代の剣豪スタアとして絶大な人気を博したのは、眇目に構えた独特のポーズにあった。それは青眼でない眇目(すがめ)の阪妻が見事に表現したからであろう。このように人生論的意味を身を持って表すことのできる俳優にして、はじめてスタアの座を確保できるのだ 」(林屋辰三郎、加藤秀俊梅棹忠夫多田道太郎

1943年(昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉(本名)に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまったという豪快なエピソードも残っている。

冒頭の言葉は、映画『地獄の蟲』に出演するにあたって、述べた言葉である。「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」という環歌子の証言もある。坂妻は人生においても俳優としても真剣勝負の人であった。

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