「名言との対話」12月8日。三波伸介「ギャラが一番高くなっても、喜劇王になった訳じゃない。良い芝居を残さなくては、、、、、」
三波 伸介(みなみ しんすけ、1930年6月28日 - 1982年12月8日)は、コメディアン・俳優・司会者・タレント。
日大芸術学部映画学科中退。三波伸介・戸塚睦夫・伊東四郎の3人でぐうたらトリオを結成していたが、後に「てんぷくトリオ」に改名し、舞台やテレビのバラエティ番組で人気となった。
三波は1970年に日本テレビの「笑点」の3代目司会者となる。番組はもちろん、三波自身も芸人とてブレイクする。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナー、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会や、『スターどっきり(秘)報告』や毎日放送・TBS『伸介のグリコがっちりショッピング』、東京12チャンネル→テレビ東京『三波伸介の凸凹大学校』などの司会をつとめた。
多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の1982年に52歳で急死する。墓石には、三波の座右の銘であった「喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介」と刻まれている。
後輩のコント55号の萩本欣一からは「お兄さん」と呼ばれ、同世代のザ・ドリフターズのいかりや長介とは親友だった。渥美清と藤山寛美にはライバル意識を持っていた。テレビ出演料が日本一高くなった時も、「ギャラが一番高くなっても、喜劇王になった訳じゃない。良い芝居を残さなくては…」と、50歳あたりからテレビの活動を減らし、心機一転して舞台に力を入れ始めたのだが、わずか数年で断たれてしまった。映画は渥美清、舞台は藤山寛美、そして、テレビは三波伸介といわれていたが、喜劇という同じ土俵で彼らと戦おうとしていた。戦前のエノケン、ロッパ、金語楼の時代と同じように、2つ上の渥美清と1つ上の藤山寛美と黄金時代を築こうとしたのだ。
HPの「三波伸介記念館」が三波伸介を紹介している。昭和40年代後半~昭和の終わりまでのTV番組の黄金期は、ドリフ、コント55号、南伸介の時代であり、三波伸介は高い視聴率を稼いでいた。「笑点」は40%を超え、「お笑いオンステージ」は大河ドラマより高く、「三波伸介の凸凹大学校」はテレビ東京初の20%超、「スターどっきり(秘)報告」は25%台を常に取っていた。確かにこの人のお笑いのセンスは群を抜いていたとの記憶がある。12月8日のブログには、「12月12日と12月19日 二代目三波伸介が 笑点三代目司会者の初代三波伸介役で出演した笑点ドラマの再放送があるそうです」との情報が載っている。このHP記念館は38年経っても生き続けているようだ。
三波伸介といえば、「びっくりしたなあ、もう」というギャグが今でもその表情とともに耳目に残っているが、「テレビで名は売った。残りの人生は、喜劇黄金時代の復活だ!!」と決意し、「良い芝居を残そうと」したのだが、その志が未達に終わったのは惜しまれる。
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