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「名言との対話」4月15日。大黒屋光太夫「エトチュア(これなに)?」

大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。享年76?

太夫は石積神昌丸の船長として16人で江戸に出航し、遠州灘で大きな時化に襲われ、太平洋を7カ月にわたって漂流し、アリューシャン列島の小島に漂着。4年後、カムチャッカに移る。その2年後、ロシアの政庁のあったイルクーツクに移る。このとき、仲間は6人となっていた。1768年創立の日本語学校の教師となるように説得され、2人は受け入れている。ここで帝室科学アカデミーの会員である博物学者キリル・ラクスマンに出会う。ラクスマンの師匠は5代将軍綱吉とも面談し、1972年に『日本誌』を書いたケンペルだった。

首都ペテルブルグで当時の女帝・エカテリーナ2世に謁見し、帰国を許可された。キリルの次男アダム・ラクスマンが派遣され、光太夫ら3人が9年半ぶりに日本に帰着した。光太夫ら2人は江戸番町で30年余の軟禁生活を余儀なくされる。鎖国していた日本国内への影響を心配したのだ。光太夫は当時の知識人たちとも交流している。11代将軍徳川家斉の治世で、当時の老中・松平定信桂川甫州に聞き取りをさせ、『北槎聞略』著し蘭学発展に寄与する。

この数奇な運命に翻弄された大黒屋光太夫の生涯は、1968年の井上靖おろしや国酔夢譚』、2003年の吉村昭『大黒屋光太夫』で紹介された。また、光太夫は映画、ル歩、漫画、舞台、オペラ、浪曲などで多く取り上げられた。

みなもと太郎風雲児たち 大黒屋光太夫』(漫画)を下敷きにしたユーチュブの映像をみた。マイナス50度にもなる極寒と飢えに耐えて、ユーラシア大陸を横断し日本へ戻る物語で、波乱に満ちた大冒険の生涯の一端が理解できた。2005年に鈴鹿市に大黒屋光太夫記念館が開館している。

この動画の中で、光太夫がロシア語を学ぶ様子が描かれている。最初に覚えたのは「エトチュア」であった。「これ何?」の意味だ。探検家が海外で異言語に接するときは、物を指して「これ何?」と問い、答えを覚えていく方法が早く覚える道だという。毎日繰り返し数百の単語を知れば日常生活に問題はなくなるのだ。同じく漂流民であった高田屋嘉兵衛、ジョン万次郎らも同様であり、子どもが言葉を覚えていく道と同じのようだ。探検家でもある梅棹忠夫は、外国語なんて簡単だという。この方式で覚えて、帰国するとすぐに忘れてしまう。それでいいという。

太夫や万次郎らは、もともと知性が高く、そういったやり方を続けることで、外国の社会の構造、政治の仕組み、物産、人情などについて深く分け入ったのだろう。同じ漂流民でも、知的好奇心のない場合は、体験が知識にまで昇華せず、参考にならないケースも江戸時代には報告されている。

新しい事件、事態、物品、そして国や民族、流行などについて、「これ何?」という好奇心を持ち続けたいものだ。大黒屋光太夫からはこのことを学んだ。吉村昭『大黒屋光太夫』(新潮文庫)を読んでみよう。

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