「名言との対話」6月26日。山川健次郎「己が専門の蘊奥を極め、合わせて他の凡てのことに対して一応の知識を有して居らんで、即ち修養が広くなければ完全な士と云う可からず」
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、1854年9月9日(安政元年閏7月17日) - 1931年(昭和6年)6月26日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。享年76。
会津藩の白虎隊から始まり、17歳でアメリカ留学、エール大学に学び物理学を専門とする。32歳で帰国後、東京帝国大学(48歳、52歳)、九州帝国大学(58歳)、京都帝国大学(61歳)の総長をつとめ、東京理科大の創設にかかわる。退官後も、武蔵高校(武蔵大学。73歳)、そして安川財閥の資金提供を受けて設立された明治専門学校(九州工大)の校長、総裁をつとめた。二度に及んだ東京帝大総長の11年11カ月に及んだ在任期間は歴代最長である。
山川は清廉潔白な人柄であった。住まいは破れ別荘のごとくなっていた。宴会には出席しないし、講演会では報酬を受け取らない。また一つのことを成し遂げると、弟子に譲る。弟子が有名になる人だった。田中館愛橘、長岡半太郎などが弟子であり、その流れがノーベル物理学賞の湯川秀樹、朝永振一郎につながる。そういう人物だった。
会津の有名な「十の掟」と海外留学が山川をつくり、その山川が日本の教育界を形づくった。全国各地の学校で講演も多く、最多は1年間30回。1日3回のこともあった。
山川健次郎は、賊軍の会津出身であったが、人の縁といくつかの幸運に導かれて教育界に大きな足跡を残した。傑物であった兄の山川浩も東京高等師範学校の校長をつとめるなど、山川家は教育界に大きな貢献をしている。妹・捨松は大山巌夫人。
大河内正敏は1921年若干43歳で理化学研究所の所長となる。高峰譲吉が理研を提唱、渋沢栄一は副総裁として財政を後押しした理研は63社、121工場もの企業群を擁するコンツェルンを形成したが、人材輩出の面で素晴らしい業績をあげている。若い大河内を推薦したのは山川健次郎東大総長だった。
私は2010年に会津大学に招かれて講演をしたことがある。白虎隊伝承史学館などを見学した。このとき、「山川健次郎は白虎隊顕彰の最大の功労者なり」との言葉をみつけた。白虎隊が後に喧伝されるようになったのは、山川の努力のおかげなのだ。
山川健次郎の言葉。
「およそ世の中で戦争ほど悲惨なものはない」
「日米戦争などまったくばかげておる。そういうとをいう者は浅薄で思慮のない者どもである。日米双方にとってまったく益のないことであり、両国の識者が話し合うべきだ」
山川健次郎の冒頭の言葉は、深い専門と広い知識を持つこと、そのために日々精進することが人物たることの条件であることを述べているように思う。「教養と修養」である。
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