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「名言との対話」10月5日。頭山満「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも何時かは発奮する気になるじゃろう。老若誠に一瞬の間じゃ、気を許すな」

頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日1855年5月27日) - 昭和19年(1944年10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。

明治・大正・昭和期のの国家主義者。玄洋社を結成。日露開戦を主張、戦後は講和条約反対運動を展開。大アジア主義者として中国、インド、ベトナムに太い人脈を持っていた。中国の孫文、康有為、インドのチャンドラ・ボース、朝鮮の金玉均、などの支援を行って、政界に隠然たる影響力を持っていた。

私の九州の実家には亀井南冥の「吐鳳」の書と頭山の書が九州の実家の座敷に飾ってあった。また、頭山満は父らの会話の中で何回か耳にした記憶がある。福岡の玄洋社記念館を訪問してわかったのは、頭山は南冥の長男・亀井昭陽の息子の亀井玄谷に陽明学を学んだことだ。私の父はこの玄洋社頭山満に関心があったということだろう。

2006年に福岡の玄洋社記念館を訪問した。ビルの2階に玄洋社記念館はあった。商法制以前、社は志を同じくする人間が集まって研鑽をはかる士族の結社という意味を持っていた。玄洋社は「皇室を敬載すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」との三原則を基幹とした政治結社明治12年にこの名前になった。佐賀の大隈記念館で大隈外相を襲い条約改正を葬った来島恒喜が玄洋社社員だったことを思い出した。

玄洋社は、自由民権運動憲法の新設、国会の開設、祖国の国力伸張に奔走する。また屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基づくアジア民族の自決独立の援助を行う。孫文を助けるなど中国革命における玄洋社の存在は大きく第二次世界大戦終了直後まで日中平和工作を継続していた。記念館入り口の写真や関係者の名簿に度肝を抜かれる。中野正剛緒方竹虎、進藤一馬などそうそうたる人材を輩出している。

石屋の息子であった広田弘毅は東京帝大卒業まで、郷里福岡の頭山満の援助を受けていた。外相に就任したとき「協和外交」を標榜している。これは玄洋社の大アジア主義の流れであった。

因みに、中村天風は、玄洋社の頭山に預けられ、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた。赤尾敏は、1941年の衆議院選挙では大物・頭山満を選挙事務長として当選する。山形県庄内町清川の清河八郎記念館内では、頭山満の「尊皇攘夷」という書も見かけた。以上にみるように、頭山満は実に多くの人と交流をもち、そして人を育てている。

戦後の1946年に玄洋社は占領軍により強制的に解散されている。

「ふるさと博多」シリーズという小冊子には「無位、無冠。在野の頭領。不思議な大きなひと」との評が出ていた。萩の乱連座し投獄される。出獄後は板垣退助と交わる。向陽社・玄洋社を組織。福稜新報を創刊し社長。大隈外相爆弾事件にかかわる。満州義軍結成を支援。浪人会を結成し大正デモクラシーの風潮と対決。純正普選運動を展開。孫文、ボースら亡命政客を保護。戦前右翼界の長老として晩年は神格化される。

  • 「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い人は国でも人でもない」

  • 「反省をしなければならない。しかし、改心をしてはいけない」

  • 「青年は圭角がなければならぬ」

火のついた線香である人間は、時限爆弾を抱えながら生きていることになる。時々刻々とその日は迫りつつある。この短い期間に気を許して時間を無駄にするな、発憤せよ、それが頭山の気概に満ちた言だ。

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