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「名言との対話」1月8日。佐々木良作「政治家と国民とは写し鏡のようなものである」

佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本の政治家。

京都大学を卒業し、1939年に国策会社の日本発送電に第一期生として入社。以後、労働運動に身を投じる。1947年(昭和22年)の参院選に無所属で出馬して全国区8位で初当選(32歳で最年少)するが、1期限りで参院議員を退任した。 電源開発での総務部長を経て、1954年退社し、1955年の衆院選に旧兵庫5区から右派社会党公認で出馬し当選。以後、連続12選する。1959年に日本社会党をら離党し1960年に民主社会党結成。1977年第4代民社党委員長に就任し、1985年まで務める。社会党の江田三郎、公明党の矢野絢谷也と社公民路線を主導した。中曽根再選に反対する「二階堂擁立劇」では、公民との連立の模索した。このあたりの活躍は、私は新聞紙上でよく見かけた。明るい論客という印象だった。

古本で佐々木良作『小田原日記』(日経)を読んだ。日経新聞の「私の履歴書」に加筆した本である。この本の表紙を開けると、著者のサインがあった。なかなかの達筆である。豊岡中学では補欠の一番で入学し、旧制松本高校では試験日を間違え追試で入学するというエピソードを語っている。高校で手塚先生から俳句を学ぶ。恩師の手塚は「筋の正しい俳人」だと評している。俳号は良素。句集も『野分』『鳥雲に』がある。

 秋空や仰ぎ天の字書きてみし  新年は動中静と構えたり 

 今年こそ忙中閑と筆始め

佐々木はメモ魔だった。常に3種類のメモ帳を持っていた。一つ目は仕事に関するもので予定、活動、感想。二つ目は「小田原日記」で自己告白の日記。3つ目は仕事以外のひとりごと帳のメモ・ノート。多忙な日々を送りながら、自己を保持し続けようというした人なのであろう。

「青年諸君よ、安全株のみ買おうと考えるな」とのメッセージを語る佐々木良作は、「尊敬する人」として政治家を挙げる人が少なくなったという。選挙の済んだその日から、毎日毎日が次の選挙のための運動の連続であるとし、政治家稼業、票乞食という言葉も用いて理解も求めている。国民それぞれは独自の要求を持っており、政治活動には無限といってよいほどの経費がかかるのであり、それが不正の源だ。それを認めたうえで、政治家と国民とは写し鏡のようなものであるという。やはり、この国民にしてこの政治家なのだ。それは今も変わらない。近年の政治の状況は、国民の劣化の反映に過ぎないということだろう。危機は一段と深まっていると感じる日々である。

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