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「名言との対話」7月13日。浅利慶太「読み、書き、算盤」ではなく、「読み、書き、語り、そして算盤もなのだ」

浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日 - 2018年7月13日)は、日本の演出家実業家である。享年85。

1953年、慶應義塾大学を中退し「劇団四季」(命名芥川比呂志)を結成。1961年、28歳で石原慎太郎と共に、新設の日生劇場の制作・営業担当取締役に就任。劇団四季を集金力と集客力で大組織に変貌させた。2014年、四季株式会社社長を退任。

若いころから五島昇などの財界人、そして政治家とも多くの付き合いがあり、それが浅利がなした事業を支えていた。40年に及ぶ政治家とのつきあいがあった。本人は、政治家との付き合いには覚悟がいる。ものごとを頼まない、自分の利害を持ち込まないことを心がけたという。『佐藤栄作日記』の中に浅利の名前は19回出てくる。浅利は佐藤のなまりを直す家庭教師だった。佐藤は人の話をよく聞く耳の大きい人だったと述懐している。また中曽根康弘ほど人の話をしっかり聴く人はいないとも語っている。傑出した総理二人はまわりに民間の人を置いて耳を傾ける人だったようだ。

「キャッツ」「オペラ座の怪人」「ライオンキング」などのミュージカルから、「オンディーヌ」「ハムレット」まで、約130本の劇団四季作品の演出、プロデュースを手掛け、その上演回数は1万回を超える。長期ロングランの「キャッツ」などを成功させ、日本にミュージカルを定着させた功労者だ。1998年の長野冬季五輪では開閉会式の演出を行った。

「芝居で食べられるようにしたい」という目標を掲げ、観客動員300万人、年間公演数3000回、俳優・スタッフを含めて劇団員は約1300人という日本最大の劇団に育て上げた。「若い日本の会」を一緒につくった慧眼の批評家・江藤淳は「浅利慶太は楽しませ上手であって、演劇の極北を目指す芸術家ではない」とはっきり書いた。そのことが以上の浅利の活動に影響を与えているようにみえる。

多摩大時代に講義で訪れた浅利慶太の部下の人に浅利慶太という人物のことを聞いたことがある。相当に激しい人で、劇団四季では抜擢もあるが、降格もしょっちゅうあるとのことだった。その人もそういう目に何度もあったと語っていた。

「今の俳優さんはまず自分のことを考えます。日下(武史)君や僕の世代は、まず劇団のことを第一に考えてきました」

浅利慶太 時の光の中で』を読んだ。印象的だったのは、演劇・劇場論ではなく、浅利は日本語を研究して「母音法」を発見していることだ。日本語の子音は口の形であり、日本語は音はすべて母音を響かせて成り立っている。あいうえお、を練習する。そして一音一音を問う感覚で並べる意識で語る。この発声法を発明した。姪の小谷真生子キャスターはNHK時代からこの法を取り入れていたように、演劇やアナウンサーなど、「語る」職業には有効だ。これはわたしも取り入れたい。

浅利慶太豊前・豊後(大分県)の男は、シンプルで、アバウト、豪快と評している。わたしも思いあたるところがあり苦笑しながら読んだ。

今回『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方』を手にした。浅利は「読み書き算盤」ではなく。「読み書き話す」だという。話し方を意識していないので、国際社会で損をしている。その傾向はインターネットで加速した。「正しい日本語」の話し方、聞き取りやすいセリフを体系化し、それを「劇団四季」の武器とした人だ。「母音法」と「呼吸法」と「フレイジング法」が3本柱だ。不レイジングとは、読み書きの句読点と話す時の区切りが違うことになる。それが伝わり方に大きな影響を与える。台詞の基本3年、歌5年、ダンス10年というが、訓練でだれでもやれるそうだ。「美しい日本語の話し方」教室は9年間で29万人に近い児童数となった。

劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方』を読むと、日本語の話し方を科学的、体験的に極めた人であり、また正しく、美しい日本語を話す日本人を育てようとしたの感を深くする。浅利慶太は国士だった。


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