「名言との対話」8月16日。津田梅子「何かを始めるのはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい」
津田 梅子(元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。
津田塾大学の創設者・津田梅子は、日本における女子教育の先駆者の一人である。
2024年に新札が発行される。一万円札は福沢諭吉から渋沢栄一。五千円札は樋口一葉から津田梅子。千円札は野口英世から北里柴三郎。渋沢は日本資本主義の父、津田は女子教育の先駆者、北里は日本医師会の初代会長。来年以降、津田梅子に脚光が当たるだろう。
津田梅子は佐倉藩士から西洋農学者になった津田仙の次女として江戸に生まれた。1871年(明治4年)の6歳で、最年少の開拓使留学生として岩倉使節団に同行し渡米し、初等・中等教育を受ける。この間にキリスト教に入信する。初めてブラジャーをつけた日本人として服飾史にも津田梅子の名前が載っている。11年後の1982年に帰国し華族女学校で英語を教える。1989年再度渡米し生物学と教授法を学ぶ。生物学では日本人女性初の科学論文を書いている。帰国し1900年に35歳で女子英学塾を創設する。本格的な英語教育を通じて国際的に通用する女性を育てることに邁進した。女子教育の先駆者である。
1999年に発刊された『女たちの20世紀100人ーー姉妹たちよ』という本がある。日本初の女性医師・荻野吟子、女子教育の先駆者・津田梅子、東京女子大で新渡戸稲造の後を継いだ2代目学長・安井てつ、さらに樋口一葉、上村松園、柳原白蓮、神近市子らと並んで、日本初の女性検事・門上千恵子らが紹介されている。 女性の社会進出の歴史を構成する長い、長い列に並んだ人たちだ。その列は今もえんえんと続いている。
1900年に女子英学塾が誕生するが、ほぼ同期に、吉岡弥生の東京女子医学校、成瀬仁蔵の日本女子大と、女子の高等教育機関が設立されている。これらの先駆者たちの生涯は、それぞれ世間の無理解と闘う苦難の歴史であるが、津田梅子のもその一人だった。
開拓史からの官費留学、華族女学校の特別の計らいによる二度目の留学でのブリンマー・カレッジでの勉強の中で、「日本の未来をつくる女性たちを育てる」学校をつくろうという決意が固まってくる。今回『歴史発想源 女子教育篇』を読んで、実に多くの人々からの好意と激励とによって、この大事業を完遂させたことがわかった。
黒田清隆、森有礼、伊藤博文、山川捨松、チャールス・ランマン、新島襄、下田歌子、トーマス・ハント・モーガン、渡辺筆子(石井筆子)、ヘレン・ケラー、ナイチンゲール、セオドア・ルーズベルト大統領、新渡戸稲造、安井てつ、、、、。こういう人たちと出会い、縁を結び、志を固め、事業を展開していく姿をみると、津田梅子の事業は神が支援しているのではないかと思えてくる。
津田梅子は、生物学者として有望で、後にノーベル医学・生理学賞を受賞するモーガン博士からも世界的研究者として将来を期待されたが、日本で事業を展開することを選んでいる。今回、新千円札の顔となる北里柴三郎も、ドイツのコッホ研究室で次々と華々しい業績をあげ、ケンブリッジ大学などからも招請されたが、日本の医学の向上のために振り切って、日本で活躍する道を選んでいる。
「何かを始めるのはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい」と、津田梅子はいう。何かを思いついて始めるが、いつのまにか霧消。気がつけば、やりっぱなしの痕跡だらけ。常に困難が襲ってくるし、自分の側にも様々な事情が降ってくる。だから続けることはまことに難しい。そしてそれを誰の目にも見えるように成功させるには、幾多の困難を克服しなければならない。津田梅子の女子教育も、周囲の無理解と自身の無力感を克服した難事業であっただろう。津田梅子のこの言葉には打たれるものがる。
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