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「名言との対話」11月25日。中城ふみ子「絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき」

中城 ふみ子(なかじょう ふみこ、1922年(大正11年)11月25日 - 1954年(昭和29年)8月3日)は、日本の歌人。

北海道帯広市出身。旧姓は野江富美子。東京家政学園卒業。乳癌のため1954年札幌医大に入院。入院中『短歌研究』の第1回五十首詠に応募し、「乳房喪失」が入選。奔放な生への情熱と、非情な自己客観が騒然たる反響をよび、のち渡辺淳一によって小説化された。入選4か月後、31歳で永眠。帯広に歌碑がある。

中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。寺山は「たとえば一つの<正義>の例として僕は「短歌研究」の勇気に帽子をぬごうと思う。僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて中城ふみ子の作品であった」と述べている。

家政学院在学中に「故岡本かの子の様な、人間らしい、女らしい生活で一生を終へたいと願ってゐるのです」と語り、「絢爛の牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし」という「岡本かの子」へ捧げる歌を詠んでいる。そして、31歳という短いかったが、いや短いゆえにそのとおりの生涯を送った。

「人間は一生のうちに自分の運命や思想をすっかり変へてしまふ程の、強い影響力を持つ人に出会ふことがある」といった。

短い生涯には常にドラマが湧きおこる。「絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき」と歌ったとおり、数度の結婚・離婚、多くの恋愛があった。その生涯を中城ふみ子の歌だけを見つめてしのぶことにする。

函館時代。

 淋しくもあるか子ら食む白飯は嫁ぎし日の帯にしあるを

 人妻はかかるときにもほほゑみて容崩(かたちくず)さぬものとかと泣かゆ

 愛憎の入り交じりたるわが膝を枕に何を想へるや夫

帯広時代。

 水の中根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ

 絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき

 生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし

 いくたりの胸に顕ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず

 悲しみの結実の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ

 音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる

東京時代。

 救ひなき裸木と雪のここにして乳房喪失の我が声とほる

 ひざまづく今の苦痛よキリストの腰覆ふは僅かな白き粗布のみ

 唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる

 葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せの我の背中はまだ無瑕なり

 灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽の如くに今は狎らしつ

 遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ

 この夜額に紋章のごとかがやきて瞬時に消えし口づけのあと

 息切れて苦しむこの夜もふるさとに亜麻の花むらさきに充ちてゐるべし

 夕ぐれは水の如くに流れたり宗八かれひ香しく焼く

 メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ

 灼きつくす口づけさへも目をあけて受けたる我をかなしみ給へ

 衿のサイズ十五吋(インチ)の咽喉仏ある夜は近き夫の記憶よ

 瑠璃いろの朝に想へばこの子らを生みたるほかに誇ることなし

 コスモスの揺れ合ふあひに母の恋見しより少年は粗暴となりし

性愛と母性と、そして死に彩られた短い生涯がここにある。

不治といわれる癌の恐怖に対決した時、始めて不幸の確信から生の深層に手が届いたと思う……ひたすら自分のためにのみ書く作品が普遍的な価値を持つまでに高められる試みの端緒を僅かに掴んだばかりの今である」。

歌いたいから歌うのだ、歌わずには居られぬから歌うのだ。歌うべき必然性があり、それを歌うという姿勢である。ドラマ性の高い日々を送ることで得たものを歌に託すのである。

手もとにあった『集成・昭和の短歌』(岡井隆編)に採られた中城ふみ子の歌から選んでみた。

 倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふ湯のなかに煮て

 口つぐむ人らの前を抜けて来つ禁句の如きわが存在か

 熱き掌のとりことなりし日も沓く二人の距離に雪が降りゐる

 衆視のなかはばかりもなく嗚咽して君の妻が不幸を見せびらかせり

 ひしめきて一を争う東京にわが足立つる空地はなきか

 母子抒情読みたるコロカ太郎すむモンマルトルの地図を諳んじき

 憂鬱といふならねども三十のわれは男の見栄に目ざとし

 かがまりて君の靴紐結びやる卑近なかたちよ倖せといふは

 月のひかりに捧ぐるごとくわが顔を仰向かすすでに噂は恐れぬ

 冷ややかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり

 担われて手術室出づるその時よりみづみづ尖る乳首を妬む

 子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり

 葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕なり

 ゆっくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え

代表歌集『乳房喪失』(作品社)は、1954年7月1日に刊行された。初版は800部であったと伝えられている。ふみ子が亡くなったのは9月3である。売れ行きは好調で、最終的には8版を重ね総計1万部を増刷した。賛否がうずまき歌壇に与えた影響は大きなものがあった。中井英夫は『花の原型』と題された第2歌集を編み、1955年4月に刊行している。

中城ふみ子の生涯は小説や映画になっている。代表的な小説は渡辺淳一『冬の花火』、映画は「乳房よ永遠なれ」(制作:日活、原作:若月彰、中城ふみ子、監督:田中絹代、脚本:田中澄江、主演:月丘夢路)だ。帯広市図書館では、2階に「中城ふみ子資料室」が設けられ、はふみ子の書簡、歌稿、日記といった資料が展示されている。

小説か映画か覚えていないが、少年時代の私も歌人でもあった母との会話の中で「乳房喪失」のことが話題にのぼったことを覚えている。

中城ふみ子を発掘した中井英夫は、ふみ子を「女歌」の代表の与謝野晶子の後継者として位置づけている。中条ふみ子の生涯といくつかの短歌を読んで同感した。また寺山修司と並ぶ現代歌壇の先駆者という高い評にも納得した。

「絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき」、まさにそのとおりの短い生涯であった。


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