「名言との対話」7月8日。佐佐木信綱「広く、深く、おのがじしに」
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。享年91。
三重県出身。国学者・佐佐木弘綱の息子。12歳で東京大学古典科に入学し、16歳で卒業。亡くなった父の遺志を継いで「生涯を民間にあって歌の道の弘布と著述とに努めたい」と志し、父の主宰していた竹柏会をつぐ。1898年、短歌雑誌『心の花』を発行し、木下利玄、川田順らを育てた。
東大講師として万葉学の研究、和歌の歴史的研究にいそしみ、教えながら学び、『万葉集』研究の第一人者となった。66歳、文化勲章。
『佐佐木信綱全歌集』(ながらみ書房)を読んだ。
「思草」「遊清吟藻」「新月」「銀の鞭」「常盤木」「豊旗雲」「鶯」「椎の木」「瀬の音」「黎明」「山と水と」「秋の声」の全12の歌集をまとめたものである。
息子の佐佐木幸綱の「解説」では、歌人としての仕事は以下のように3期に分けられるとしている。
新派歌人の時代(25歳―42歳):「思草」「遊清吟藻」「新月」「銀の鞭」。伝統派歌人に対立する鉄幹らの新派に属していたが、旧派にも知人があり、新旧の橋渡し役として短歌革新運動に実りを与えた。
「願わくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや」
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」
充実期(43歳ー73歳):「常盤木」「豊旗雲」「鶯」「椎の木」「瀬の音」。
研究者として10数年かかった国家的プロジェクト『校本万葉集』への没頭と、10歳少し年下の白秋、茂吉、牧水らの登場で作歌が低調な時期を過ごす。その後、旅行詠が多くなる。
「道の上に残らむ跡はありもあらずもわれ虔みてわが道ゆかむ」
「国今し戦へるなり夕山村紅葉の村に日の旗は立てり」
熱海時代(74歳ー92歳):「黎明」「山と水と」「秋の声」、それに「老松」(この全集に作成時にまとめられた)
自伝三部作、『万葉集評釈』全7冊などをはじめ数々の研究成果を刊行。また多くの短歌を詠んだ。「充実期」以上に充実した晩年であった。
「人いづら吾がかげ一つのこりをりこの山峡の秋風の家」
「花さきみのらむは知らずいつくしみ猶もちいつく夢の木実を」
「ありがたし今日の一日わが命めぐみたまへり天と地と」
佐佐木信綱が70代になって住んだ熱海は、東京とは3度違い過ごしやすい、海と山に囲まれて自然が素晴らしい、東京との距離が近い、という条件が揃っており、昔から文人、政治家、軍人などが住んできた場所である。私は2005年に小説・彫刻・音楽・短歌の分野の記念館を訪ねた。杉本苑子旧宅「彩苑」、澤田政廣記念美術館、中山晋平記念館、そして佐々木信綱「凌寒荘」だ。その家で20年近くの間、たくさんの仕事を完成させたのである。
佐佐木信綱の歌の中で印象に残ったものを以下にあげる。
利のやっこ位のやっこ多き世に、我は我が身の主なりけり
湯ぶねの湯 ほのあたたかみ 鰐の群 そが故郷を忘れたるらし( 別府地獄組合事務所)
わが恋の哀しき恋の終りなる鐘の音かもむねにひびくは
生の余の一世は短し二世三世生れつぎて吾が志成さむ
友とくみし別れの酒のほのぬくみ汽車は雪の広野を走れり
まじまじと我をながめて風の如つと林間に走せ去りし女
あざむくも相争ふもおのがじしの生きねばならぬ悲しさの為
五十とせを歩みわがこしこの道の道のはるけきに心いためり
まざまざと天変地異を見るものか斯くすさまじき日にあふものか
豊国の宇佐の郡の秋の日にあかあかと照れる煉瓦の倉庫(宇佐)
若人を友とし教へかつは学びはやも過ぎにしか二十まり六とせ
春の鳥山のみ寺に声すなり白鳳仏のましますみ寺(富貴寺)
松浦の老翁し偲ばゆ石狩川岸の枯生の道ふみなづみ(松浦武四郎)
坂の中らの家、庭にさける桔梗、あるじに聴く尚円王の歌(伊波普猶)
才・学・識、額の文字きよき書斎にして浄き机に向ひいましき(鴎外博士詩碑序幕式)
尊きかも永き一生を生のきはみ筆とりまきし国民のために(蘇峰徳富先生挽歌)
佐佐木信綱の歌論を聴こう。歌とは何か。「歌とは、純粋な真、崇高な善、自然の美という「真善美」を歌うものである」。「広く、深く、おのがじしに」とは、「題材を広くとり、思想を深くする。人それぞれの境遇や性格があり、各々自らの歌を詠むべきである」という意味である。
息子は佐佐木治綱、孫は佐々木幸綱で、曾孫の佐佐木頼綱、次男の佐佐木定綱も歌人である。いわば短歌は家業である。
佐佐木信綱という研究者と歌人を兼ねた人物の大きさを感じた。そして充実期以上に充実した70代、80代を過ごしたことに感銘を受けた。この人は登り坂の途中で前のめりのまま人生を閉じた人である。