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「名言との対話」 5月23日。美濃部達吉「学ぶ者は山に登るがごとし」

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家、東京帝国大学教授。

兵庫県高砂出身。兄・俊吉は後の朝鮮銀行総裁。達吉は帝大法科を卒業後、内務省に入省するが性にあわず2年で大学に戻る。ヨーロッパ留学後、1902年に29歳で教授。39歳、『憲法講話』を刊行、天皇機関説論争が起こる。護憲運動を支持。1931年、満州事変勃発、軍部批判を展開。1932年、貴族院議員。1932年、滝川事件を批判。1934年大学を退官。1935年、貴族院で天皇機関説が批判される。不敬罪で告発される。主著が発禁処分。議員辞職。1946年、枢密院顧問。1948年、死去。享年75。

明治憲法は専制君主が主であり、立憲君主が従であるの二つの側面を持っていた。建前は専制的天皇だが、実際は藩閥・軍閥、政党、官僚や陸軍らが担い、元老が調整役を果たしていた。旧制高校などの高等教育を受けた指導層には立憲君主制を教えた。そのため密教と呼ばれた。

明治憲法の二重構造の枠組みの中で議会・政党を中心とする政治の正当性を論理的に説明したのが、天皇機関説である。国家は法人であり、主権は天皇個人にはなく、憲法の範囲内で主権の行使に携わる制限君主とした。実際の政治は内閣に施政の主導権があり、天皇は政治に積極的に関与すべきではないとした。日本は古来から国政にあたらなかったことで世界無比の尊厳を保持しえたと述べた。

吉野作造(1878-1933)とは5歳違いだった。美濃部は法律、民政主義。吉野は政治、民本主義。二人は大正デモクラシーの先導者だった。厳父・美濃部が扉をたたき、慈父・吉野が扉を開いた。第一次大戦後にピークを迎えた大正デモクラシーは1905年から1932年、明治38年から昭和7年まで、日露戦争から満州事変、五・一五事件まで四半世紀続く。

昭和天皇自身は、国家主権の方がよいと思う、ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいと語ったというから、天皇機関説に近かったと、鈴木貫太郎侍従長は述べている。

さて、そういう本物の学者であった美濃部は、「学ぶ者は山にのぼるがごとし」という名言を残している。高い山を、一歩一歩登っていったのであろう。もって銘すべし。

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