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「名言との対話」4月16日。団鬼六「運命は性格の中にある」

団 鬼六(だん おにろく、1931年4月16日(戸籍上は9月1日)- 2011年5月6日)は、日本の小説家・脚本家・演出家・エッセイスト・映画プロデューサー・出版人。

滋賀県彦根市生まれ。関西学院大学法学部卒業。1957年「親子丼」で文藝春秋オール読物新人賞に入選。バーを経営したり、教師をしたりしたが、60年代『花と蛇』が人気を博し、官能小説の第一人者となる。一時断筆していたが、1995年に『真剣師 小池重明』で復活。『花と蛇』『肉の顔役』『夕顔夫人』『鬼ゆり峠』『肉体の賭け』『美少年』『不貞の季節』 などの官能小説をはじめ、『真剣師 小池重明』『蛇のみちは』『悦楽王』『往きて還らず』『落日の譜ー雁金準一物語』などの文学作品を多く手掛けた。
エッセイの名手としても知られ、『牛丼屋にて』『死んでたまるか』『快楽なくして何が人生』『生きかた下手』『我、老いてなお快楽を求めん』『愛人犬アリス』『手術は、しません』など多数ある。

アマ将棋連盟が投げ出した『将棋ジャーナル』を買い取り、将棋界と深くかかわり、その縁で50歳前の米長邦雄と懇意になる。50歳で名人位に就いた棋士・米長邦雄をテーマとして団鬼六『米長邦雄の運と謎』(幻冬舎アウトロー文庫)を読んだ。

「異常小説を主眼にした異質の軟派小説を書いていて、この種のマニアからは暗黒文学の帝王などといわれていた」と自らを語る。

この本のテーマは「運命と性格」である。米長は常に「勝利の女神は謙虚と笑いを好みます」と語る。さわやか流女神教とでも呼ぶべき米長教の信者となった団鬼六が、この言葉の意味を追いかけた本ともいえる。

「謙虚」とは謙遜することではない。無邪気の上に成り立つ謙虚さである。私が知っている言葉では「素心」を持っているということだろうか。「野心も私心もない。あるのは素心だけ」と評された石田礼助と同様に米長は「卑」を嫌った。小林陽太郎にも「素心深考」という言葉がある。素直な心で、しっかり考えよ、という意味だ。また「菜根譚には、「人と作るには一点の素心が存することを要す。人と交わるには須く三分の侠気を帯ぶべし」とある。素直な心、それを素心というのではないか。一点の素心を持つ人とは、ものごとから目ををそらさない、逃げない。そして真正面から向き合う姿勢を持つ謙虚な人のことだろう。渥美清、立川談志は、無邪気の上に成り立った謙虚な人であると団鬼六はいう。

「笑い」とは、ユーモアを持つということだが、滑稽さも含んでいるのではないか。周囲に笑いが渦巻く人である。その明るさを運命の女神が好きになる。

米長は6度名人位に挑戦するも夢を果たせなかったのだが、悔しさはなかった。「細部にとらわれず、全体を見る」という姿勢を米長は持っていた。時世、時流をみている人だった。敗れ続けた間、米長は名人となる運気に恵まれなかったと解釈し、時機の到来を待ち、50歳で念願の名人位を獲得する。

米長邦雄『人間における勝負の研究』は名著だった。ユーチューブでも米長のインタビューを最近も聴いて、感銘を受けている。

「人はその人にふさわしい事件にしか出会わない」という小林秀雄の言葉を見つけて膝を打ったことがある。つまり、性格が事件を呼ぶ。事件の積み重ねが運命につながっていく。 芥川龍之介も「運命は性格の中にある」「運命は偶然ではなく、必然である」と言っている。「勝利の女神は謙虚と笑いを好み、才能ではなく性格こそが運気を呼び込む」という米長の人生哲学に団鬼六は深く共感する。そのテーゼを米長は実力と運が複雑に絡みあう将棋というフィールドで追究していった人だ。団鬼六は随伴者として描いていく。

団鬼六という人を、主たるフィールドの本ではなく、この本で知ったことは幸運だったような気がする。「謙虚と笑い」を身に着けた性格は、運命の女神を引き寄せる。私も同感する。さわやか流を信奉していこう。

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