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「名言との対話」1月14日。三島由紀夫「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威〈ひらおか きみたけ〉、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家。

三島由紀夫の市ヶ谷の自衛隊への乱入事件は1970年11月25日だ。三島事件の衝撃は今でも覚えている。三島由紀夫のファンであった大学生の私は三島のライフワーク「豊饒の海」四部作を読んでいた。三島由紀夫については小説を読み、石原慎太郎、林房雄、川端康成との対談を読み、インタビューで英語で答える姿を見ており、書くべきことは多いが、ここでは、まずいくつかの本の読書について書こう。

三島由紀夫『レター教室』(ちくま文庫)。5人の人物が繰り広げる事件を手紙形式で表現した異色の小説。主題は、手紙の書き方である。「ラブレター」「肉体的な愛の申し込み」「愛を裏切った男への脅迫状」「招待を断る手紙」「恋敵を中傷する手紙」「病人へのお見舞い状」「裏切られた女の激怒の手紙」「離婚騒動をめぐる手紙」、、。「ともすると、恋愛というものは「若さ」と「バカさ」をあわせもった年齢の特技で、「若さ」も「バカさ」も失った時に、恋愛の資格を失うのかもしれませんわ」。やはり三島は人間の心理をよく知っている。人間通だった。

三島由紀夫『人間の性(さが)』をぱらぱらとめくってみた。学生時代に三島の本をよく読んだ。小説もそうだが、この人の切れ味のいい言葉に親しんでいた。久しぶりに、古本屋で見かけた本を手に取った。 「私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持って歩くと、自分の目をなくしてしまう」。以下、名言を抜き出してみる。「小説家とは、、、理想的には情感百パーセント、理智百パーセントほどの、普通の二倍のヴォルテージを持った人間であるべきで、バルザックも、スタンダールも、ドッストエフスキーも、そういう小説家であった」「鴎外の文章は非常におしゃれな人が、非常に贅沢な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしゃれを人に見せない、しかしよく見るとその無造作な普段着のように着こなされたものが、たいへん上等な結城であったり、久留米絣であったりというような文章でありまして、駆け出しの人にはその味がわかりにくいのであります」「小説家は人間の心の井戸堀り人足のようなものである。井戸荒から上がって来たときには、日光を浴びなければならぬ。体を動かし、思いきる新鮮な空気を呼吸しなければならぬ」「性や愛に関する事柄は、結局万巻の書物によるよりも、一人の人間から学ぶことが多いのです」「文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体を持った批評は(小林秀雄氏のように)芸術作品になってしまう。なぜかというと文体を持もつかぎり、批評は想像に無限に近づくからである私は、、、文章の最高の目標を、格調と気品に置いています」「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

「倅・三島由紀夫」(文春文庫)。三島由紀夫の父親が倅を書いた追想記だ。1970年(昭和45年)11月25日の自衛隊市ヶ谷への乱入事件から記述は始まる。「自衛隊の有志と語らって国会を占拠し、憲法改正の発議をさせよう」と考えた三島らが行った事件で、三島は切腹し森田一生の介錯を受けて死ぬ。当時大学生で三島のファンだった私も衝撃を受けたが、世間も騒いだ。母親からの聞き書きを読むと三島由紀夫の死を予感していたようだ。「処女作以来、発表する前に必ず私に原稿を見せるのがならわしでしたが、、」「子供のときから夕日と富士山と海が大好きでした」「毎晩かかさず、「お休みなさい」を言いに私のところに参ります」「今年の末に完結するはずだから、それからとすれば明年1月ごろには何か起きるかしら」と予感され、慄然としました」。三島由紀夫が親孝行だったこと、恩賜の時計をもらったこと、大蔵省勤務と小説書きとの二足のわらじの様子など、父親の眼で見える三島像には意外な点が多かった。

以下、三島にかかわる施設訪問記から。

鎌倉文学館を訪問。旧前田侯爵家の別邸。1964年からは佐藤栄作首相が週末の静養に使っており、息子の龍太郎や信二とのみゴルフをしていた。三島由紀夫の傑作『春の雪』の別荘のモデルになった場所である。長いアプローチで辿り着く洋館には、「長楽山荘」(聴濤山荘から変更)という表示があった。

山中湖の三島由紀夫文学館を訪問した。自筆の原稿が多く展示されている。 ライフワーク「豊饒の海」四巻を再度読みたいと書いている。

三島由紀夫の辞世の歌もあげておこう。「 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜風 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴」。「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜風」。

さて、三島由紀夫の死から半世紀、50年が経った。三島の予言はどうなったか。「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」になった。日本は三島のいう日本ではなくなったといえるかもしれない。


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