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「名言との対話」8月8日。矢田部良吉「昔の人の是といひし / 事も今では非とぞなる / 今日の真まことはあすの偽うそ / あすの教はあさつての / 非理邪道とやなるならん」

矢田部 良吉(やたべ りょうきち、1851年 10月13日(嘉永4年9月19日) - 1899年(明治32年)8月8日)は明治時代の日本の植物学者、詩人。 理学博士

静岡県伊豆の国市出身。江戸で中浜万次郎大鳥圭介らに英語と数学を学ぶ。1871年森有礼随行アメリカにわたり、コーネル大学で植物学を学ぶ。1876年に帰国し東京博物館(現・国立科学博物館)館長。1877年、東京大学理学部教授。1882年、東京植物学を設立し会長。

1886年訓盲唖院(後の東京盲唖学校)校長。1888年、東京高等女学校校長を兼任。1891年教授を非職。1895年東京高等師範学校教授、1898年校長。1899年遊泳中に溺死。享年48。

この人は今NHK「らんまん」で主役の牧野富太郎との因縁が深い人物だ。学問分野での発見や命名のトラブルがあった。矢田部と牧野には確執があった。

ニュートンライプニッツ。ワトソンとクリック、フランクリン。ダーウィンとウォレス。以上のような代表例が示すように、学問の世界は人間ドラマに満ち満ちている。

牧野富太郎自叙伝』を読んだ。牧野富太郎の述懐を聴こう。

  • 矢田部は「自分もお前とは別に日本植物誌を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」と宣告する。牧野は矢田部の自宅を訪ね「私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引き立てるのが義務ではないか」と懇願したが、聞き入れてもらえず、悄然と先生宅を辞した。

  • 「今度上京したら、矢田部先生と大いに学問上の問題で競争しようと決意した。矢田部先生が常陸山であるならば、私は褌かつぎであるから、相撲のとしれも申し分のない対手だった。」

  • 「大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷免にしたのである。その原因は、菊地大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる。」

  • 「矢田部先生は罷免後も植物誌を続けねばいかんといい、教室に出てきて『日本植物図解』を三冊出版されたが、後は出なかった。」

  • 「破門草事件」について。真相を知っているのは今日では私一人だろうといい、事件の経緯について述べている。伊藤篤太郎を破門したのだが、牧野は徳義上よろしくなかったが、同情すべき点もあったと擁護している。

二人は同時代を生きたのだが、一方は48歳で不慮の死を迎え、一方は94歳という天寿w全うした。長生きした牧野には2倍以上の人生があった。長生きした方は、こういう形で世間に向かって述べる事ができる。やはり長生きした方が勝といえようか。

ところで、矢田部良吉は植物学にとどまらず、外山正一、井上哲次郎らと『新体詩抄』を上梓したり、羅馬字界でも幹事となっている。本業以外にも、日本の近代化のための活躍している視野の広い人だった。

新体詩「鎌倉の大仏に詣でて感あり」(「新体詩抄(1882年)」集録)には「昔の人の是といひし / 事も今では非とぞなる / 今日の真まことはあすの偽うそ / あすの教はあさつての / 非理邪道とやなるならん」とうたう。これが学問の世界のことだろう。その後には、「尊体此処に在ます間は/ 如何に時勢の変わるとも/年々人の尋ね来て/嘆賞せざることなけん」とあり、鎌倉の大仏は変わらないと讃えている。

矢田部良吉の生涯も波乱に満ちており、志半ばで生涯を終え、悪役として人々の記憶に残ったが、第一級の人物であったことは間違いない。

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