「名言との対話」1月11日。谷桃子「踊り手としてもう一生ほしいですし、振付にも指導にも、もう二生も三生も欲しいですね」

谷 桃子(たに ももこ、1921年(大正10年)1月11日 - 2015年4月26日)は、日本のバレリーナ、振付家。

外資系の商社マンの父と師範学校出の母親の間で生まれ、ハイカラな家庭で幼少生活を送る。8歳で洋舞といわれていたバレーと出会う。女学校は自由教育の文化学院で音楽や美術にも触れていく。

1947年 - 東京バレエ団『コッペリア』の日本初演で主役を踊る。1948年 -、『白鳥の湖』のオデット役でるようになり、日本のバレエ界に一時代を画した。そして、1949年には谷桃子バレエ団を立ち上げる。

『バレリーナ 谷もも子の軌跡』(文園社)を読んだ。谷桃子と親しい舞台関係が谷をかたる文集だ。三島由紀夫は「軽やかさ、その憂愁、そのエレガンス」と言い、タナー歌手の藤原義江は「舞台の上で音楽が歩いたり、とんだりしているよう」と評し、舞台芸術の妹尾河童は「美意識の高さ」と述べている。

バレリーナとしての清楚な姿と好ましい人柄で、谷桃子は画家たちにファンが多かった。猪熊弦一郎、小磯良平、鈴木信太郎、宮本三郎、岡鹿之助らがモデルにした。三岸節子は週刊朝日のモデルに使っており、三岸が谷をモデルに絵にしている姿や、デッサンを二人で眺めている写真をみることができる。なかでも奥村土牛の描いた傑作「踊り子」は院展で評判になった。

谷桃子の代表作でもある「白鳥の湖」は通算で1000回を超える公演となっている。1974年、『ジゼル』を最後に53歳で現役ダンサーを引退し、振り付け、指導に専念する。そして2003年には、日本バレエ協会第3代会長に就任し、2006年まで続けている。

谷桃子は優れた教育者でもあったようだ。この本には指導を受けたダンサーたちの尊敬の言葉が載っている。実力と意欲と厳しさの伴った指導に皆が感謝をしている姿は圧巻だ。「バレエは時間のかかるもの、一生勉強よ」、「色々なことが分かって来る頃には悲しいことに体の方が言うことを聞かなくなるのよ」などと指導していた言葉が弟子たちから語られている。

85歳時のインタビューでは、「足や腰、背骨が磨り減ってしまい、骨がきしんでおきる関節の痛みです」とバレリーナの職業病を語っている。そして、「踊り手としてもう一生ほしいですし、振付にも指導にも、もう二生も三生も欲しいですね」という発言には驚いた。自分が生きたバレリーナとして歩んだ一生、それ以外にもう一生、そして振付師で一生、指導者で一生。なんという探求心だろうか、北斎のように「あと10年あったら」どころではない。こういう発言は今まで聞いたことがない。その後、10年近くもバレエの世界に生きている。享年94。

谷桃子が活躍した時代と彼女のバレエ人生の軌跡を眺めると、バレエのパイオニアというだけでなく、その生涯は日本の舞踏史そのものだという感慨をおぼえる。

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