見出し画像

名言との対話」9月16日。八杉貞利「自分は博士号の栄冠を得んよりも、むしろ露語学に殉ずるを以て本懐とする」

八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 1966年2月26日)は、日本ロシア語学者。享年89。

東京・浅草出身。一高を経て東京帝大文科大学言語学科を卒業。恩師の上田万年博士のすすめでロシア語を専攻することにし東京外国語学校の別科(夜学)で学ぶ。1901年、ロシアのペテルブルグ大学に留学し、比較言語学、スラブ比較文法を学ぶ。日露戦争の開戦のため、留学を切り上げ帰国。1903年、東京外国語学校教授。東京帝大、早稲田大学でも講師をつとめる。ロシア語、教会スラブ語、古代ロシア語、ロシア文語史、スラブ系語論などを講義した。

八杉貞利の功績は2つある。一つはドストエフスキー研究者の米川正夫ら多くのロシア文学者を育成したことである。「ロシヤ文化の研究」の米川の「序」では、露語研究に体系や根拠を示し、東京外語卒業生の数千人の学派を形成したとある。彼らはあらゆる分野で活躍した。もう一つは「大露和辞典」の編纂という露語を学びものの灯台を建設したことである。

八杉は1901年「外国語教授法」から1950年「ロシヤ文法」まで、多くの著作を刊行している。「露西亜語学階梯」「簡易日露会話」「露西亜語文法」「かなつき日露会話」「露語発音講話」「露和辞典」「基礎ロシヤ語」「八杉ロシヤ語教本」「日露会話と作文の基礎」、、、など、あらゆる分野の本を刊行している。

露西亜語以外にも、プーシキンに関する著作や、ロシア時代の日記、そしてトルストイに関する共著もものしている。

また米川は東京外語の露語会誌では、露語に移らず専門の言語学に専念していたら博士号を得ていただろうとある人がいったら、八杉は莞爾として微笑み、「栄冠よりも、殉ずる」という本懐を述べ、それを聞いた皆が感動したという逸話を紹介している。

露西亜語という新しい分野の開拓と、膨大な仕事量と体系化、そして広範な露西亜語人材の養成という素晴らしい業績を挙げた人だ。その志の後継者たちが、ロシアとの関係を築いていったことが容易に想像できる。

八杉貞利の若い頃の「露語学に殉ずる」という決意が、一人の小さな小川がいつの間にか大河になって流れているという壮大な絵姿になっていったことを知り、感銘を受けた。

師の上田萬年は、言語学に関する幅広い分野で研究者を育てた人であり、八杉に露西亜語というテーマを与えた。八杉はその期待に応えた。その弟子である米川らが大活躍していくのである。学問はこういう人間関係の中で発展していくということに改めて感じ入った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?