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「名言との対話」 3月21日。俵田明「伝統の連環と社会の十字路に屹立する人間だけが、不易の生命をながらえ得る」

俵田 明(たわらだ あきら、1884年(明治17年)11月13日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の経営者。宇部興産創立者。社長。

没落士族の家系。興成義塾を卒業後、築地の工手学校を卒業し、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得る。1915年、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社し、炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1942年に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。

異業種の統合会社を一つの理念のもとに渾然と融和させるという課題があった。一応の体をなした形の中にどのような魂を入れるか考え、「尽忠愛国」「和衷協同」「反省感謝」「錬成卓越」「生産拡充」の社訓を制定した。戦後は石炭化学事業、ナイロン原料事業進出などを手掛け、同社の業容を大きく発展させた。NHK経営委員、日経連常任理事、経団連常任理事などの公職もつとめている。

一周忌を期して編纂が計画され、1962年に刊行された大著『俵田明伝』によれば、俵田明には、 秋霜のきびしさがあり、正しからぬもの、胡散くさいもの、あいまいなもの、不明瞭なもの、不精確なもの、不安定なもの、危険なものには、反発した。また責任感、実行力、私心のなさ、知識欲があった。体躯堂々、眼光炯炯、節度ある挙措進退、爽快な言辞。、、、などの言葉が並んでいる。

晩年には、会社の品格を高め、第一級の会社に仕立て上げたいとの願いを持っていた。

 七十路を今日越えにけり東路にゴルフに遊ぶ吾身うれしき

 菊の宴ここに七十有一年

 世の中に為すことありと大神の扶けたまひし余生尊し

「七十年古来稀なりとは人生五十と称えた当時のことであり、一般にも寿命の延びた現代にあっては、古稀も先に延びて私の余生も尚十余年はあるように思う。働き盛りはこれからとも言える。余生はすべてを神に任せ、共に活き共に働いて社会のために懸命の奉仕をしたいものと思う」。しかし、それからは10年の余生はなかった。享年73。

宇部興産創立60周年記念事業として、宇部市最大の俵田翁記念体育館が市に寄贈されている。俵田明の孫に林芳郎(厚生、大蔵大臣)、ひ孫に林芳正(防衛、農水、文科大臣)がいる。

「伝統の連環」とは歴史のことであり、「社会の十字路」とは地理のことだろう。歴史のたて糸と地理のよこ糸を織りなして、人生と企業の美しい織物を仕上げた人である。

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