見出し画像

「名言との対話」3月18日。吉野作造「人世に逆境は無い。如何なる境遇に在ても天に事へ人に仕える機会は潤沢に恵まれている」

吉野 作造(よしの さくぞう 1878年明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。

宮城県生まれ。東大教授。論壇で活躍し『中央公論』などに多くの評論を発表、民本主義を提唱し、普通選挙・政党内閣制実現を主張。枢密院・貴族院・軍部を批判し、その改革を唱え、また黎明会 、東大の新人会,社会民衆党結成にも関係し,大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1924年軍部の圧迫で東大を辞し、一時朝日新聞社に入社。また明治文化研究会を創立し『明治文化全集』24巻の編集にあたった。(出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について
以下、大崎市吉野作造記念館の2度の訪問記を記す。

2005年に吉野作造記念館を訪ねた。この記念館は、古川市関係の審議会や委員会で何度も訪問している。しかし本気で訪問するのは今回が初めてだ。個人記念館としては各地の記念館と比べても立派な建築物である。入館すると丁度12時からの映像が始まったところだった。

綿屋をしていた家が新聞の取次ぎ配達をしていたため常に新しい出来事に興味を持つきっかけとなった。吉野は小学校、尋常中学校(後の仙台一高)、第二高等学校、東京帝大政治学科とすべて首席で通しているのには驚いた。町では評判の秀才で「吉野家の作さんのように」といわれていて、町長をしたことのある父親に連れられて仙台へ出た。中学校の校長は言海を編んだことで有名な大槻文平である。仙台時代には、「勤勉」という自らを激励する紙とともに「五時ニ起キルコト」と書いた紙も机の前に貼ってあって、自らを奮い立てて勉学に励んだ姿と、乾布摩擦で体を鍛える姿が映った。

高等学校時代にはミス・ブゼルにキリスト教の感化を受け、20歳で洗礼を受ける。そして21歳で阿部たまの(19歳)と学生結婚をしている。東京帝大には1900年に22歳で入学。2年生のときに小野塚喜平次教授の政治学に興味を持った。呼び寄せた家族を抱えての猛勉強をしながら、本郷教会での海老名弾正の説教に影響を受ける。信徒となったキリスト教と自らの専門となった政治学を結びつけることに関心を持った。処女論文である「ヘーゲルの法律哲学の基礎」では、キリスト教に基づいて政治を実践すべきと書いている。

28歳からの中国・天津での3年間は、袁世凱の息子克定の家庭教師をつとめ、いったん帰国し31歳で東京帝大法科助教授に就任。「袁世凱の家庭なるもの、馬鹿らしさと支那の高官なるものの無責任とを口を極めてののしった」「我々はこの若い秀才の率直さにドギモをぬかれた感があった」(大内兵衛)とある。32歳から3年間欧米(ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、アメリカ)を回った。外国暮らしは8年に及ぶ。36歳東京帝大教授、37歳法学博士。

1916年に中央公論に「憲政の本義を説いて有終の美、、」という論文を書いた。民本主義という言葉で吉野作造を知ってはいたが、その思想の内容が今回初めてわかった。

民主主義という思想は、国民が政治の主人公という意味でありこれは天皇が政治の主人公であるという憲法に反する考え方であった。吉野は憲法に違反しないで現実の政治の変革を達成するために、政治は国民の考えに基づいて行われるべきであると主張した。政治は国民全体の幸福を中心に考えるものであり民衆を政治の根本におくという意味で「民本主義」と称したのである。民衆の利益を考え、民衆の意向によって政治を行うべきであるとして、天皇制下の民主主義として、最低限のデモクラシーを確保しようとした。この考え方は大正デモクラシーの中心的な思想となった。1912年の美濃部達吉博士の天皇機関説を1916年に政治学上にあらわした思想が民本主義である。

大正デモクラシーは、1912年(大正元年)―1926年(大正15年)をいうが、広くは1904年(日露戦争)から1931年(満州事変勃発)までをいう場合もある。この大正知識人の代表が吉野だった。1924年には退官し朝日新聞に入社したが4ヵ月後には退社している。1933年に55歳の若さで死去している。もともとは体は強くはなかったが、広い交遊、社会変革向けての行動など多忙を極めて命を縮めることとなった。

また、吉野は天皇:内閣・議会:国民というピラミッドが理想で、天皇にくっついている枢密院や軍部、国民にくっついている制限選挙を取り払おうともして運動をした。天皇制は認めた上で、国民から離れた枢密院を廃止、貴族院や郡部などの特権を抑え、国民が選んだ議会を中心となって、政党内閣の首相のもとで国民の意向を汲み、国民の幸せを目指す政治を実現しようとしたのだ。

また、吉野作造は大変に広い交友関係を持っていた。中学校時代には大槻文彦真山青果。文化生活研究会では、有島武郎。黎明会では、阿部次郎、与謝野晶子新渡戸稲造。中国関係では、袁世凱後藤新平明治文化研究会では宮武外骨普通選挙運動・社会運動では、鈴木文治、尾崎行雄、市川房江(吉野より15歳若い)。ジャーナリズムでは、徳富蘇峰、阿部次郎、長谷川如是閑、青山青果。論壇での論争では、山川均、大杉栄。あとは、バイブルクラス、弓町本郷教会、東京帝大、賛育会、大学普及会などの友人と多くの親交を持っていた。

展示は、アカデミズムの人、ジャーナリズムの人、インターナショナリストの3つの区分で資料を並べている。

「路行かざれば到らず 事為さざれば成らず」と筆名の古川学人で語っている碑もあった。古川学人は、主に「中央公論」誌上で好んで使用したペンネームで、故郷を思う気持ちが現れている。

吉野作造賞は1966年から始まっている。第一回は、坂本義和と衛藤審吉で、今日まで著名な政治学や経済学関係の碩学が並んでいる。永井陽之助伊藤光晴、永井道雄、入江昭高坂正尭、矢野よう、猪口邦子米本昌平北岡伸一、野口由紀男、渡辺利夫田中直毅、、、、、、、。

2000年から始まった読売・吉野作造賞では、吉川洋白石隆猪木武徳などの名前があった。この賞は、中央公論が読売傘下に入ったのも機会に、読売論壇賞と中央公論吉野作造賞を一本化して、2000年度から新たな賞としてスタートしたものだ。

10周年を記念してこの記念館のロゴマークを募集したところ、宮城大学4年生の鈴木寛君が最優秀に選ばれたとの紹介が掲示されていた。138人、183点の応募があり、私の大学の鈴木寛君が選ばれたというので、嬉しくなる。

吉野作造の精神である人を大切にする意味をモチーフに作成。人という文字を囲むように点を三箇所に配置し、線と点で和・輪を表現。ひげをたくわえた顔も隠喩したデザイン」と紹介されていた。飾ってあった作品を全部見たが、この鈴木君の作品がデザイン力、ユーモア力で群を抜いているという印象を持った。

吉野作造記念館だより」は、NPO法人古川学人が編集・発行を行っている。平成14年よりこのNPO法人古川市より管理運営を受託している。記念館の名誉館長は作家の井上ひさしさん。入り口に建つ吉野作造顕彰碑の大事は長谷川如是閑筆。

個人記念館を訪問すると、偉人が身近に感じられると同時に、理解が自然に深まってくるのを感じた。吉野作造は、故郷に強く郷愁を感じるタイプの偉人である。

2007年に再訪。仙台駅の12番ホームで降りて向かいの11番線の各停の新幹線に乗り換えた寺島実郎さんと車内で待ち合わせ。今日の小旅行の目的は古川にある吉野作造記念館を訪問することだ。先日東京で会った時、雑誌連載の取材の一環として訪れたいとのことだったので東京から日帰りの旅が実現した。

市内を流れる緒絶川のほとりにある橋平酒造店の酒造蔵・家財蔵・屋敷を再現した「醸室」(かむろ)の味所あらいではっと料理を昼食に食べ、そのまま記念館へ。

小一時間二人で館内を見学する。記念館は土曜日だったのだが、寺島実郎さんと私の二人しかいない。それぞれ興味のある展示を見て歩く。

大正デモクラシーの中心人物だった吉野はキリスト教倫理に基づき政治を実践することをテーマとした実践の人だった。東大では小野塚教授の「君主も国家の一部」という思想に感銘を受けるが、キリスト教の本郷協会で海老名弾正(1856−1937)という人物に大きな影響を受ける。海老名は吉野より22歳年上であるが、経歴をみると熊本洋学校同志社、本郷教会を経て、1920年には同志社の総長をつとめている。熊本出身徳富蘇峰新島襄らの影響を受けた人物であろう。吉野はキリスト教の正義と愛を実現すべく社会事業家としても活動をしていて、東大キリスト教青年会理事長としてセツルメント活動にも熱心だった。それが東大セツルメントにつながっていく。

寺島さんは岩波書店の雑誌「世界」の「脳力のレッスン」(本質を見抜く眼識で新たな時代を切拓く)という連載を持っている。この7月で63回目の連載というから5年以上続いているが、現在のテーマは「ベルサイユ講和会議が今日に示唆するもの」だ。ここで近衛文麿吉野作造を取り上げる予定で今回の訪問となった。「人物を書くからには真正面から真剣に向き合わねばならない」「根本のところは何か」などが寺島さんの問題意識だ。

館長の田中昌亮さんを呼び出し、短い時間だったが少し話をする。この記念館は講演を頼みたくて何度もアプローチしてきたそうだ。だから書面上では面識があるらしい。

私は二度目の館内訪問だったが、今回は「吉野作造評論集」「古川よ影」「吉野作造--人生に逆境はない」「故吉野博士を語る」などを買った。吉野作造日記を読みたかったが、絶版で古本屋しか手に入らない。吉野も30歳過ぎから亡くなるまで日記を書き続けていた。

ほとんどの時間を人物論を語り合いながら過ごしたが、「1900年の旅」など近代の日本人の足跡を日本のみならず世界に足を伸ばして訪ね歩いている先達の寺島実郎さんは、目線深くその人物の本質に迫ろうとする。

今日は、いつもとは違って、ブログに書いた訪問記を整理してみた。

「人世に逆境は無い。如何なる境遇に在ても天に事へ人に仕える機会は潤沢に恵まれている」。吉野のいう「人世」(ジンセイ)という言葉に興味を持った。人が生きていく世の中、世間という意味である。人世を生きていくのが人生である。天と人につかえる機会を生きよ。キリスト教者らしい思想とそれを実践した人である。

参考:『吉野作造』(吉野作造記念館)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?