「名言との対話」7月29日。橋本龍太郎「終戦でなくて敗戦」
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。
政治家の父の後継は次男の大二郎(後の高知県知事)となっており、龍太郎は慶應義塾大学を出て呉羽紡績に勤務するが、父の急逝で、1963年25歳で衆議院最年少で議員になる。
1996年「自社さ政権」の村山首相が退陣した時、宮沢内閣退陣以来、自民党は2年半ぶりの政権復帰に際し、副総理だった橋本は総理に就任する。慶応出身の初の総理である。1997年4月1日の消費税5%を断行し、これが長期不況の始まりとなった。その後の参院選で負け、首相を退陣し、小渕が首相となる。2001年に森首相退陣後の自民党総裁選に出馬するが、小泉純一郎に破れた。
橋本龍太郎は、多趣味の人であった。剣道は錬士6段、写真はプロ級、エベレスト登山隊の総指揮をとるなど登山家としても活動した。
「見識はあるが、人望はない」などと揶揄されることもあったが、座右の銘の「誠」と「初心忘るべからず」を胸に秘めて政治活動を行った。橋本行革と呼ばれた省庁再編では、22省庁を1府12省庁とし、この体制は現在まで続いている。「火だるま宰相」と異名をとった行革には命をかけていたことがわかる言葉である。
以上を命日の2018年7月1日に書いている。今回の「大正から昭和へ 誕生日編」では少し書き加えたい。
1963年の衆議院銀当選同期には、小渕恵三、渡辺美智雄、中川一郎、田中六助、伊東正義、という多士済々の大物が並んでいる。総理になった人(小渕恵三)、総理になれなかった人(渡辺美智雄、田中六助、中川一郎)、そして総理にならなかった人(伊藤正義)がいて、戦後の政治史を華やかに彩っている。
2000年に森喜朗内閣の不信任案が国会に出た。加藤紘一らが同調する動きをみせたとき、谷垣禎一が泣きながらとめたあのシーンを思い出すが、このとき、主流5派閥の会合で橋本は「熱いフライパンの上で猫踊りさせとけばいい」と言い放った。大勝負をかけようとした総理候補・加藤はこのとき、政治生命を失ったのである。
2009年に自民党が下野して社会党委員長の村山富市を担いで、自社さ政権をつくった。その村山は1995年8月15日に有名な「村山談話」を発表する。通産大臣であったは橋本は、文案にあった「終戦」というあいまいな言葉を、「敗戦」に書き改めさせている。
第二次大戦中に、「退却を転進」と呼び、「全滅を玉砕」といい、「敗戦を終戦」と言い換え、あいまいにして事実を認めない風潮にあった。村山を首班とする社会党内閣のレガシーとなった「村山談話」において、終戦を敗戦にせよと言い切った橋本龍太郎は、行革では「火だるまになって」というなど、慶應剣道部時代に「突貫剣士」と呼ばれたままにふるまったことを改めて記したい。
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