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「名言との対話」10月28日。中沢臨川「テング、テング、テンテング、テテングー。奮え、奮え、天狗!」

中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年明治11年)10月28日 - 1920年大正9年)8月9日)は、日本文芸評論家電気工学者

長野県中川村出身。旧制松本中学、第二高等学校、東京帝大工科大学で電気を学ぶ。卒業後は、東京電気鉄道(都電)、京浜電気鉄道京浜急行)で技師として勤務。かたわら、文芸評論、翻訳を発表する。1914年以降は『中央公論』で文芸時評蘭を担当。1916年、故郷に戻り、文芸活動を継続。小説『嵐の前』を発表。1920年、死去。

東京帝大で電気を専攻した中川臨川は、文芸に志があったのだが、それ以外のところで面白いエピソードがあった。

京浜電気鉄道の電気課長時代に、公共の運動場で一般人の体育を奨励しようと、この会社所有の羽田沖合の1万坪の土地を上層部にかけあって提供した。それが「羽田運動場」である。1911年にはストックホルムオリンピックの予選会が行われ、短距離の三島弥彦とマラソン金栗四三が好成績で選出された。このシーンは、NHK大河ドラマ「いだてん」で広く知れ渡った。あの運動場を提供したのが中沢臨川だった。

この運動場では、アマチュアのスポーツが花開いた。その代表格が押川春波のスポーツ愛好社交団体「天狗倶楽部」だった。中沢はこの団体のナンバー2として活躍した。天狗倶楽部は、野球を中心に相撲、テニス、柔道、陸上、ボートなど多岐にわたる活動を行った。この倶楽部からは、野球殿堂入りが5人輩出した。プロ野球の創生にかかわった押川清、河野安通志、「学生野球の父」飛田穂州、社会人野球の瀬戸頑鉄、スポーツ評論の草分け・太田茂である。他にも「岩手野球の父」獅子内謹一郎、後楽園イーグルズ監督の山脇正治宮内省野球班を組織した泉谷祐勝、アメリカのプロ野球球団に入団した三神吾朗。まさにそうそうたるメンバーだった。日本初の学生相撲大会も開催している。メンバーリストをみると、画家の小杉放菴、政治家となった尾崎行雄らがいる。

メンバーはそれぞれの分野の天狗だったのだ。この倶楽部のエールは「テング、テング、テンテング、テテングー。奮え、奮え、天狗!」だった。この不思議なエールも、「いだてん」で見た記憶がある。

中沢臨川は、志であった「文芸」では名をなさずに、短い生涯を送ったが、「羽田運動場」の開設と「天狗倶楽部」の運営を通じて、日本のスポーツ界に大きな貢献をしたのである。こういう名前の残し方もあるということを知った。

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