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「名言との対話」3月31日。武田 麟太郎「筆を休ませなかった。作家とい云うものは、結局、書くことによってのみ自分を揚棄させて行けるものではないかと思う」

武田麟太郎(たけだ りんたろう、1904年(明治37年)5月9日 - 1946年(昭和21年)3月31日)は、日本の小説家。享年41。三高卒業後、帝大文学部仏文科に入学。セツルメントに参加して労働組合運動にかかわり、中退する。反戦小説「暴力」などでプロレタリア作家として出発し文壇の地位を築いた。プロレタリア文学への弾圧を経て、傾倒した井原西鶴の作風に学んだ庶民の生活感情を描いた「日本三文オペラ」など、庶民風俗の中にリアリズムを表現する「市井事もの」とよばれる風俗小説を発表し、独自の境地を築いた。武田が「文学の神」と崇めていたのは、徳田秋声だった。

「私は、小説家になろう、と思った、----十七歳の正月である」。そして才能があるかどうか迷いながら小説家になるのだが、小説家を「好きな場所」という作品で次のように定義している。 「四方八方、よかれあしかれ、誤解の糸に引っ張られて、その危なっかしい均衡のうちにやっと立っているのが、小説や小説家だろう」。

兄貴分として慕っていた9歳年下の織田作之助は、「不死身の麟太郎」と言われていた武田の若すぎる死を、次のように悼んでいる。作之助の『婦善哉』を推したのが鱗太郎だった。

宇野浩二――川端康成――武田麟太郎、この大阪の系統を辿って行くと、名人芸という言葉が泛ぶ」。「終戦後、武田さんの新しいスタイルはまだ出ていなかった。しかし、私は新しいスタイルの出現を信じていた。名人芸を打ち破って溢れ出るスタイルを待望していた」。「死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか」。そしてこの追悼文を書いたわずか1年足らずで「織田作」も死んでしまう。

「いつも前作を否定したいと云うほどの熱心さは忘れなかった」。 「筆を休ませなかった。作家とい云うものは、結局、書くことによってのみ自分を揚棄させて行けるものではないかと思う」。その結果、1930年から1947年までの17年間に40冊の単行本が出ている。そして新聞雑誌に書いた小説も多く、評論・随筆も多い。膨大な仕事量をこなす人だった。

武田麟太郎の人生訓は 「天才がその機能を発揮するまでには、社会や人生が彼の上に堆積される必要があるのだ。そこに年齢が作用する」であった。42歳というあまりにも若い年齢の死だった。天才を発揮するには時間が足りなかったようだ。「織田作」が惜しんだように、時間が、寿命があったら、どのような仕事を残しただろうか。

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