見出し画像

「名言との対話」9月21日。宮澤賢治「何がしあわせかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足づつですから」

宮沢 賢治(宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家

詩人・宗教者・教師・科学者・農業者・芸術家・と多彩な活動をした宮澤賢治が注目を浴びるのは、死後のことである。自費出版の「春と修羅」は辻潤が評価し、中国にいた友人の草野心平に知らせる。草野は賢治の書を「世界の驚異」と表現している。草野が友人の高村光太郎にみせたことが縁で、賢治は5分ほど光太郎と立ち話もしている。賢治より13歳年長の高村光太郎は賢治の詩を発表すべきだと考え、東京で宮澤賢治追悼会を開いている。そして宮澤賢治全集を10年かけて刊行する。

2006年に宮澤賢治記念館を訪問。三陸地震の年1896年に生まれた宮澤賢治の記念館(花巻市)訪問は、2年前の連休から2度目である。前回はもう桜の季節は終わり、若葉が目に眩しい素晴らしい季節だった。今年は春が遅いおかげで、桜の満開の季節の訪問となった。「風の又三郎」企画展が開催されていた。

賢治が生前に出版したのは意外なほど少ない。詩集「春と阿修羅」と童話「注文の多い料理店」の2つである。盛岡中学で10年先輩となる石川啄木の「一握の砂」に影響を受けた賢治が注目を浴びるのは、死後のことである。自費出版の「春と修羅」は辻潤が評価し、中国にいた友人の草野心平に知らせる。草野は賢治の書を「世界の驚異」と表現している。草野は友人の高村光太郎にみせたことが縁で、賢治は5分ほど光太郎と立ち話もしている。賢治より13歳年長の高村光太郎は賢治の詩を発表すべきだと考え、東京で宮澤賢治追悼会を開いている。そして宮澤賢治全集を10年かけて刊行する。

賢治の詩や童話、研究は、死後日本だけでなく、世界に広がっていく。翻訳された言語は、仏、中、英、エスペラント、独、ハンガリーチェコ、スペイン、イタリア、ポルトガル、スエーデン、ヒンディーなどである。世界で賢治は読まれ続けている。世界紛争の原因は言語にあるとみたポーランド生れのユダヤザメンホフ(1859-1917)が発明した世界語・エスペラント語で賢治自身も書いている。個人の救いよりも、全体を救うことで個人も救われるとの法華経の教えとエスペラントの思想は相性がよかったようだ。

1995年のル・モンドは「宮澤の童話は、決然としたナイーヴさと洗練された知性との、独特の均衡を表している。物語の一篇一篇に比類ない詩的センスがこめられr、その哲学的な世界観はラーゲルレーフのように人間中心主義でなく、もっと汎神論的・官能的で高揚感がある」と絶賛していた。詩人・宗教者・教師・科学者・農業者・芸術家・と多彩な活動をした宮澤賢治の業績や思想を研究する「宮澤賢治学会」も活発に活動しており、宮澤賢治イートハーブ館にその拠点がある。

戦争の暗雲たなびく時代にあって、有名な「雨にも負けず」の詩は死後、谷川徹三によって大政翼賛をあおる詩集として修身の副読本として取り上げられた。戦後は復興に励む人間像として国定教科書に載り、日本人の多くが知る詩となった。死への旅立ちに向かって、昭和6年9月21日の遺書、昭和6年11月3日の詩「雨にも負けず」、遺品の中から発見された短歌、そして昭和8年9月20日の絶筆と心境が綴られている。ここに「雨にも負けず」の最後に記された「南無妙方蓮華経」の7行の意味を解く鍵があるようだ。

2013年に世田谷文学館で「没後80年 宮沢賢治・詩と絵の宇宙--雨ニモマケズの心」展を訪問。
宮澤賢治が亡くなった時、1933年9月22日付けの岩手日報は「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す 日本詩壇の輝かしい巨星墜つ」が見出しだ。「日本詩壇にかつてない特異の存在を示し新しい巨星として全日本詩壇注目のうちに詩作を発表していたもので詩、童話その他数十巻の未刊の作品を所蔵され、その非ジャーナリスティックの故に高名であり、、、」とある。

葬儀の弔辞。森佐一・藤原嘉藤冶・母木光。
「私どもはあなたの芸術を世界第一流のものとして大きいほこりをもつのに御本人のあなたはこの世のものではないやうな謙譲でひたすらかくして居られました。この町の人々は、そして日本の人々は五十年或は百年の後にあなたがどのように偉かったかといふことがわかりでせう」

父・政次郎と賢治の宗教上の闘いがあった。政次郎は浄土真宗に深い信仰を持ち、高名な僧侶を東京から迎えて大沢温泉などで講習会を開くといった人物だった。また経済人でもあった。賢治は、1920年に田中智学が創設した日蓮主義の在家信仰団体・国柱会に入会する。そして「法華文学ノ創作」を志す。
親鸞の他力本願と日蓮の法華信仰とは正反対の教えである。浄土は死後にあるとしひたすら南無阿弥陀仏を唱えよという真宗。この世を浄土にしようと願い南無妙法蓮華経を唱えながら現世の改革にあたろうとする日蓮宗。世界観の違いが鮮明になり、法論を戦わす。遺言として「国訳 妙法蓮華経を1000部作ってください」と父に頼み近親者に配る。賢治の死後、父・政次郎は日蓮宗に改宗する。

死後発見された手帳に記された「雨ニモ負ケズ」の最後の「ソウイウモノニ私ハナリタイ」のさらに最後に「南無妙法蓮華経」と書いてあった。それを仙台時代に花巻市の記念館で見た時には違和感を覚えたが、その真意がようやく理解できた。

宮沢賢治が亡くなったとき、岩手日報は「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す 日本詩壇の輝しい巨星墜つ 葬儀はあす執行」という見出しで、賢治の業績が語られていた。黒枠の写真もある二段抜きの記事だった。

改めて、宮沢賢治の代表作「雨にも負けず」を読んでみよう。

「東に病気のこどもあれば 行って看病してやり 西につかれた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北にけんかやそしょうがあれば つまらないからやめろといい」「みんなにデクノボーとよばれ ほめられもせず くにもされず そういうものに わたしはなりたい」。

「雨にも負けず」の詩は賢治の死後、谷川徹三によって大政翼賛をあおる詩集として修身の副読本として取り上げられた。戦後は復興に励む人間像として国定教科書に載り、日本人の多くが知る詩となった。谷川徹三は雨ニモマケズ」を朗読し、次のように述べている。「この詩を私は、明治以後の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思ってゐます。もつと美しい詩、或はもつと深い詩といふものはあるかもしれない。しかし、その精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を私は知らないのであります。この詩が今日の時代にもつ殆ど測り知ることのできぬ大きな意味――これは結局宮澤賢治といふ詩人が今日の時代にもつてをる意味でありますが、それをここでお話し致したいのであります。」

この宮澤賢治にして年下の草野心平がいなければ世に出ていなかった。子どもの頃、「風の又三郎」の内容は絵本で母から読み聞かせをしてもらった記憶がある。秋田の劇団わらび座で、「銀河鉄道」の公演もみている。また、実に多くの人が賢治を語る姿をみている。富田勲西澤潤一羽田孜、、。

2016年に渋谷Bunkamuraオーチャードホールで「富田勲追悼特別公演:ドクターコッペリウス。富田勲初音ミク」を観る。富田先生の娘の妹尾さんとも挨拶。 第一部 富田勲 イートハーブ交響曲。岩手山の大鷲」「剣舞星めぐりの歌」「注文の多い料理店」風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「雨にもまけず」「岩手山の大鷲」。 惑星Planet Live Dub Mix 火星・水星・木星。  第二部 富田勲 ドクター・コッペリウス

宮沢賢治のイートハーブこそは富田勲先生の地上の理想郷であり、天上の理想郷は宇宙であったということが感じられる演奏会だった。大自然と大宇宙が富田先生の世界だ。悠然。清らか。美しい。宇宙の鼓動。大自然。物語性。高らか。雄大。、、、、、。富田先生のお顔と精神を感じながらの2時間だった。

宮澤賢治の生まれた年に明治三陸地震があり、没した1933年には昭和三陸地震があった。宮沢賢治の生きたのは天災と凶作の37年間だった。宮沢賢治は、世の中を正しい方向に向けて変えていこうという日蓮宗徒として生きている。正しい道を歩むことが幸せへの道である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?