「名言との対話」9月17日。若山牧水「足音を 忍ばせて行けば 台所に わが酒の壜は 立ちて待ちをる」
若山 牧水(1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日)は、戦前日本の歌人。
2009年に牧水の資料館を訪問した。京浜急行長沢駅から徒歩10分の海沿いに長岡半太郎記念館と若山牧水資料館が建っている。若山牧水資料館も兼ねていた。資料類はむしろ牧水の方が多い。この地は、漂白の歌人・若山牧水の妻・喜志子(歌人)の病後療養のために1年間を過ごしたところである。
牧水という筆名について、牧は母まきの名から、水は生まれ故郷坪谷の渓と雨からとったものである。
「旅と酒の歌人」とも言われた牧水が旅姿で写っている写真がある。和服で尻っぱしょり、股引、巻脚絆、草履、腰に小物入の袋、懐にはメモ帳、そして左手にこうもりと鳥打帽子という姿だった。長男には旅人と名付けている。「156センチ、50キロ、酒量一日二升六合」とあり、酒の上での逸話も多い。生涯の歌は7000といわれているらしいが、44歳で亡くなっているから多い方ではない。茂吉は3万首、晶子は5万首だった。
2008年に訪問した百草園にも牧水の歌が残っていたように、牧水の歌碑は全国に300ほどある。「摘みてはすて摘みてはすてし野の花の我等があとにとほく続きぬ」という恋人との時間を歌った歌があったが、このときの相手である園田小夜子は子持ちの人妻であった。
波打ち際に出ると、夫婦歌碑があった。表は「しら鳥は、、、」という牧水の歌で、裏は、「海越えて鋸山はかすめとも 此処の長浜浪たちやまず」という喜志子の歌が石に刻まれている。
代表歌はよく知られている次の歌だろう。
幾山河越えさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりける
以下、牧水の歌で私の好きな歌を並べてみる。
早稲田大学時代以降の歌
春雨や鐘は上野かあさ草かふるき江戸みるゆめごこちかな
くれなゐの袴つけたる若き巫女の月に笙吹く春日の御堂
桜の日恋知りそめしきのふよりこの世かずみぬうすむらさきに
けふもまたこころの鉦をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く
接吻くるわれあがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
一人のわがたらちねの母にさへおのがこころの解けずになりぬる
くちぎたなく父を罵る今夜の姉もわれゆゑにかとこころ怯ゆる
思ひつめてはみな石のごとく黙み、黒き石のごとく並ぶ、家族の争論
塩釜の入江の氷はりはりと裂きて出づれば松島の見ゆ
沼津時代の歌
抽斗の数の多さよ家のうちかき探せども一銭もなし
妻が眼をいたみ憚りぬすびとの猫のごとくに釣りに出でゆく
妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲みむせ鼻ゆこぼしつ
うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
天地のいみじきながめ逢ふ時しわが持ついのちなしかりけり
こうやって印象に残る歌を並べてみると、若山牧水の人生の軌跡をたどっているようだ。この歌人には貧乏がつきまとう。その克服のためもあって旅に出て揮毫をして金を得るという生活が続いた。そしてもう一つの特徴は、酒の歌が多いことだ。
大悟法利雄編『若山牧水全歌集』に収録された8600余首のうち、367首が「酒の歌」だ。これほど多くの酒の歌をつくった歌人はいなかった。朝一合、昼二合、夜六合、あわせて一日一升が定量だったというから、文字通り朝から晩まで飲み続けていたということになる。息子の若山旅人によると、日本酒だけが好みの対象だった。小さな猪口に満たしてそれを目にもってゆき、目をつむるようにして口に含む。という飲み方だった。
酒の歌では、次の歌がとてもユーモラスで好きだ。
足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
かんがへて飲み始めたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
くちにふくめば疑ひもなきこのうまさやめられぬ酒の悲しかりけり
ものいはぬ我にすすむるうす色の昼のひや酒妻もかたらず
妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲みむせ鼻ゆこぼしつ
うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
生涯で8800 の歌を詠んだ牧水には自然と口ずさむことの多い名歌が多いが、酒の歌はまた格別でもある。その中でも冒頭に掲げた「足音を 忍ばせて行けば 台所に わが酒の壜は 立ちて待ちをる」はユーモラスで一番好きな歌だ。
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