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「名言との対話」8月24日。陸奥宗光「 政治なる者は術(アート)なり、学(サイエンス)にあらず」

陸奥 宗光(むつ むねみつ、1844年8月20日天保15年7月7日〉- 1897年明治30年〉8月24日)は、幕末武士。明治期の外交官政治家。

和歌山県出身。脱藩し坂本龍馬海援隊に入隊する。明治維新後には、伊藤博文内閣の外務大臣として、治外法権を撤廃した条約改正や、日清戦争終結時の下関条約の締結に手腕を発揮した。外相時には「カミソリ大臣」と呼ばれた逸材だった。外相辞任からの1年3か月の晩年に『蹇蹇録』(けんけんろく)を書いた。

2018年に私は王子駅の隣の上中里の「旧古河邸」を訪問した。明治元勲・陸奥宗光の別邸であった土地を古河財閥が購入し、洋館と庭園をつくった。陸奥の次男が古河に養子に入ったのが縁である。政治家と財閥の関係がみえる。

私も感銘を受けた『戦略的思考とは何か』(中公新書)を書いた外務官僚の岡崎久彦(1930-2014年)は、祖父が陸奥の従弟で、大作『陸奥宗光』を書いている。今回はその書ではなく、徳富猪一郎『私が出会った陸奥宗光 小説より奇なる生涯』(現代語訳)を読んだ。

徳富猪一郎とは徳富蘇峰の実名である。最初に出会ったのは、陸奥が43歳、徳富が24歳だった。最初の印象は「将来、必ずや何事かをなす男であろう」だった。

勝海舟は「ひとの部下について、その幕僚となるに適した人物」(『氷川清話』)と陸奥については評価は高くない。徳富の印象を聞こう。

「弁は懸河の如く」、つまり弁舌は急流のように速いという陸奥の言を肯定している。ただし「胆は天の如し」、つまり胆力は天の如く広大であるという点については「さておき」としている。

「祇だ杯酒を愛するも銭を愛せず」との本人の言のように、金銭にはきれいだったと評している。

坂本龍馬が「刀を取り上げられても飯の食える人間は陸奥と自分だけだ」と言っていたことを得意げに話していたそうだ。

陸奥は士を愛した。役に立つ才能を大事にした。門下生には原敬や星亨など多くの人材がいる。ただ、徳富は陸奥には大隈重信ほどの雅量があったかは疑問に思っている。

『蹇蹇録』については、これは日清戦争の覚え書き、回顧録だが、申し開き、自賛の記と厳しい。

山県「この者は危険人物でありますけれども、私が監督を致しまそうだ。すから、決して聖慮を煩わせるようなことはありません」と天皇に言ったエピソードも紹介している。

陸奥本人が別のところで「自分は常に白刃を大上段に構えて人に対するほかはない」と語っているように、危険だが使える人材だったということだろう。徳富は、陸奥は容貌は立派だったが、「どこかに狼顔、豹頭とでもいうような印象があった」と記している。

以上に見るように徳富は人材としては、その才能を高く評価をしているが、人物としてはなにか疑問を必ずつけている印象がある。それはなぜだろうか。

冒頭に採用した「政治なる者は術(アート)なり、学(サイエンス)にあらず」の前には、「人よりできるだけ少なく苦労して、人より多くの利益を得ようとするのは、意志が薄弱で物事を断行する力に欠けるからである。もし、そうした心が芽ばえたならば、必ず生涯は不平不満な生活をおくるしかないのだ 」との説明がある。強い意志と断行力が政治の要諦だと考えていたのだろう。

現在、日本経済新聞辻原登「陥穽 陸奥宗光の青春」(小杉小二郎画)が連載中で、毎日私も読んでいる。徳富猪一郎(蘇峰)が、「どんなに奇想天外な話を作る小説家でも、彼の生涯ほど波乱に富み、変化の激しい人生を空想することはできないだろう」と言っている陸奥宗光の物語を毎朝楽しむことにしよう。

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