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「名言との対話」2月16日。中村 正䡄「一時間の余暇の使い方ですから。ですから“二足のワラジ”というのはあたりません」

中村 正䡄(なかむら まさのり、1928年2月16日 -2020年3月1日)は、日本の小説家。

満州生まれ。都立豊多摩高等学校、学習院大学文政学部政治学科卒業。高島屋飯田に入社した後、日本航空に勤務し、1972年から1975年までハンブルク勤務、調達部長、シドニー支店長などを務める。

1980年 、旧西ドイツに赴任した70年代の体験をもとにした国際謀略小説『元首の謀叛』で第84回(1980年下半期)直木三十五賞を受賞した。著書はサラリーマンであり、処女作であったことも世間を驚かせた。 この小説は冷戦下の東西ドイツが舞台で、ドイツ語にも翻訳された。受賞から10年を経ずして、ベルリンの壁が崩壊した。近未来を予測した小説だった。

以下、直木賞選考委員の評。

山口瞳「私が評価したのは、千二百枚という長尺にもかかわらず端正な文章が少しも乱れず、全体に読者に媚びない格調があったからである」。水上勉「それと抑制のきいた文章と、細密描写の腕にだった」。五木寛之「日本人が一人も登場しない日本語の小説という意味で、特異な作品だった」。村上元三「よく計算されていて、部分部分にも鋭いきらめきがあり、群を抜いていた。」「この作者は中篇短篇を器用に書き分けるような作家には、すぐになれないかも知れない。だが、一年に一作だけ長篇を発表する直木賞作家があってもいいと思う」

文春文庫下巻の「解説」は野坂昭如である。敗戦後のドイツの事情、西ベルリンの雰囲気を伝えながら、手のこんだ構成で、近未来のできごとを迫真の筆致でえがき、人物がそれぞれ生きている作品と感嘆している。

当時のメディアのインタビューから。

「まったくの新人の三千枚の作品となると出版社としては大変な冒険になるので、千二百枚にへらしたんですよ。ぼくは三千枚ぜんぶ読ませてもらったけどあの三千枚のほうがおもしろかった。、、私は今回で四回直木賞に落ちてショウキさんに完全に乗り越えられた感じですなァ。でも、自分が原稿を読み、出版に協力した作品が受賞したんですから、ショックも最小限ですみました」と語った深田祐介は半年後に受賞した。

「中村氏は、三千枚の原稿を八冊のバインダーに分けて綴じ込み、社内の知人に読んでもらった」。加藤武彦(日本航空の広報課長)も読んだ一人である。「いやぁ、面白かった。私のようなシロウトにも、面白さはよく分かりました」。この加藤武彦は、私の広報部課長補佐時代は、次長ありで親しくしてもらった人だ。

「日本航空から広報室次長・深田祐介氏(49)と、調達部長・中村正軌氏(52)の二人が第八十四回直木賞の候補として名前があがったとき広報室の職員たちも加藤課長と同じように困惑の表情をみせた。「困った」というのは、選考の段階で最後にこの二人にしぼられ、いずれか一方が受賞し、他方が落ちるという状態を予測してのことであろう」

中村は、学習院大学の文芸部だった。親しかった吉村昭と妻になった津村節子が中村を語っている。

津村節子「学習院時代の中村さんは、たいへん行動力があって、アタマの切れる人で、シャープで、キチンとして、颯爽としていましたね。でも文学青年臭はまったくなかった。趣味で書いているのであって、何がなんでも小説家にという感じではなかったんですよ。意志が強くて、そもそものめりこまないオールマイティの人物でした。だから、その才能でお勤めでも成功されているでしょ」

吉村昭「中村さんが直木賞をもらったときはびっくりしたよ。なにしろ文芸部にはいたが、地道に小説を書くなんてタイプじゃなかったものな」。中村正䡄「なにしろ文芸部のほかに、大学新聞の編集長、大学の放送局、自治会委員長を兼ねていたんだからね」。吉村昭「廊下で会っても「やァー」と言って行っちゃう。大学の名士だった」

JALでは同時期に直木賞作家が二人出ている。中村と深田祐介だ。直木賞受賞のパーティの時、高い教養の持ち主とされていたJALの上司の専務取締役は、中村君の文章は下手だと思って、いつも赤を入れていたが、これからは止めますと挨拶して会場が沸いたと私も聞いている。残念ながら、1985年に広報部に異動した私は、深田祐介とは何度か接点があったが、中村とはなかったのは残念だ。

ところで、 中村はいつこの小説を書いたのだろうか。東京から横須賀線に坐って帰る1時間を使った執筆だったそうだ。

「東京駅の前の本社から横須賀線で横浜の家に帰ることになりますと、、、、会社とは関係のないテーマをきめて、電車の中で考えてたらどうだろう、ついでにそれを書きとめとけばいいじゃないかと思いたったんです。、、、ですから、本にして出版しようという気はなかったんです」「ただ、私は日本航空という会社が好きですし、いまの仕事に生き甲斐を感じてますから、両立しなくなって、手抜きせざるをえなくなったら、はっきりさせます。すべきだと思ってます」「その後、執筆しなかったのは「二君に仕えず。二足のわらじは、納得できなかったから」「日本航空で全力投球。人間、自分のベストを2分することはできない」「サラリーマンと作家の二足のワラジ――といわれますが、ぼくはそうは思わない。会社に迷惑をかけない、一時間の余暇の使い方ですから。ですから“二足のワラジ”というのはあたりません」

直木賞以後は、10年間の沈黙を守った。定年後に『貧者の核爆弾』(文藝春秋)、『アリスの消えた日』(早川書房)、『四つの聖痕』 (文藝春秋)、『教皇の手文庫』( 文藝春秋 )などの国際小説を書いている。そして昨年2020年の本日、92歳で生涯を終えている。見事なものだと感心した。

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