「名言との対話」3月14日。豊田穣「死ぬならば、美しく死にたいものだ。海の上にただ一つの紋章を残して」

豊田 穣(とよだ じょう、1920年(大正9年)3月14日 - 1994年(平成6年)1月30日)は、日本の小説家。

岐阜県出身。海軍兵学校卒業。霞ヶ浦航空隊付き。第36期飛行学生。1943年ソロモン方面イ号作戦で撃墜され、一週間海上漂流の後、米軍の捕虜となる。1946年帰国。中日新聞入社。1953年、「長良川」で直木賞を受賞。1986年、紫綬褒章受章。1992年、中日文化賞受賞。

米軍捕虜となったとき、5か月間にわたり執拗な尋問を受ける。この時、通訳官であったドナルド・キーンが訊問した最初の捕虜だった。

戦後の1947年、処女作「ニューカレドニア」を発表。1951年、『ミッドウェー海戦』で岐阜県文化賞受賞。1971年、『長良川』で第64回直木賞を受賞。以降職業作家として執筆活動に専念する。一方で自由出勤が認められたため中日新聞社は定年まで勤めている。

1970年、50歳で『長良川』で直木賞した時の選評を読んだ。柴田錬三郎「敬服のほかはない。この作者の受賞は、むしろおそいぐらいである」。今日出海「あの生々しい体験を昇華して、文学にした作者の成熟した腕と精神を私は高く評価するものである」。源氏慶太「私は、感動した。この感動は、日を経てもかわることがなかった」。これ以降豊田襄は堰を切ったように仕事をしていく。海軍、戦争をテーマとした小説を書き、その活動は死去の1994年まで続いた。その原動力は、戦争の正体を見極めたいという一念だったと思う。「日本という国家及び日本人それ自体の体質、そして、軍事よりむしろ、政治、経済、外交の性格や方向づけに問題があったのではないか」との述懐がある。

『海の紋章』(光文社NF文庫)を読んだ。「海軍青年士官の本懐」との副題がついている。主人公の海軍士官は豊田であり、自伝的色彩の強い作品である。

江田島の海軍兵学校の時代から、1943年のソロモン方面イ号作戦に赴くまでが描かれている。最後に旗艦「大和」で連合艦隊司令長官・山本五十六から「天祐と神助を確信して勇戦されんことを祈る」との訓示を聞き、戦線に向かう。

この小説の中で、主人公の武田竜平は大分県宇佐航空隊に着任する。そこで担任から中津で吞むことををすすめられる。この本では私の故郷の中津について以下のように説明している。古い城下町。福沢諭吉の生まれたところ。頼山陽が推奨する名勝耶馬渓。美人の産地・日田があり芸者も美人がいる。日豊本線。三百間という海水浴場。山国川。筑紫亭が海軍のゆきつけ。河豚料理がうまい。周防灘の上空から、八面山、豊前善光寺、四日市。宇佐神宮、駅館川がみえる。中津の料亭・筑紫亭は、軍人がよく利用し、あばれて、柱には刀の傷があるとも聞いた。司馬遼太郎の「街道をゆく」にも登場する。私は2000年代の前半に郷里の恩師でもあった横松宗先生夫妻、JALの先輩の影木夫妻を、母と一緒に招いて宴を催したことがある。

『豊田穣戦記文学集』(全11巻)がある 。1 マレー沖海戦。2 ミッドウェー海戦。3 ハワイ海戦と南雲中将。4 提督の決断。5 戦艦武蔵レイテに死す。6 戦艦重巡の死闘。7 空母爆沈。8 蒼空の器 撃墜王・鴛淵孝大尉。9 空戦。10 ああ海軍兵学校 豊田穣自伝Ⅰ。11 海の紋章 豊田穣自伝Ⅱ。 岐阜の岐阜県図書館に「豊田穣文庫」、そして 瑞穂市図書館には「豊田穣コーナー」がある。

『海の紋章』の最後のシーンでは、トラックからラバウルに向かう7時間の飛行中、碁盤の白石のように断雲が続く。死を決心した武田は断雲を白い墓標のように感じる。そして「死ぬならば、美しく死にたいものだ。海の上にただ一つの紋章を残して」と考え続ける」。しかし豊田襄は死ななかった。そして体験した戦争を縦横に描く作家となった。かれが残したのは、戦記文学という紋章だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?