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「名言との対話」3月3日。正宗白鳥「私も青春のことを懐かしみ、若い人を羨むことがあるが、しかし、もう一度若くなって世の中を渡ってこなければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする」

正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治 から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、文学評論家。

岡山県備前市生まれ。東京専門学校文学科卒。早稲田大学時代の白鳥は教壇に立っていた高山樗牛の誤訳を指摘するなどして高山樗牛から「秀才」と言われている。卒業後は読売新聞に入社し、文芸欄を担当し、美術・文芸・教育関係の記事を書いた。

「寂寞」「塵埃」「何処へ」「微光」「入江のほとり」「生まざりしならば」などの自然主義作品を書く。「安土の春」「光秀と紹巴」などの戯曲もある。評論も多い。

1935年には、島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立し。藤村の後を受けて1943年11月3日から1947年2月12日まで会長をつとめた。1950年文化勲章。

『素材』(青空文庫)を読んだ。「素材は多い、しかし、それを芸術品に仕上げるのは六ケしい」というのがこのエッセイの結論だったもは少しおかしく笑ってしまった。

『文壇五十年』(中公文庫)を読んだ。記者時代に気まぐれに小説を書きだして、いつの間にか文学を一生の事業にすることになった。それが50年続いたから文壇史を書こうという。尾崎紅葉、坪内逍遥、戦争劇、岡倉天心、翻訳文学、抱月藤村花袋、鴎外と漱石、樗牛らの日本主義、自由劇場、幸徳秋水、キリスト教と文学、左翼評論、マルキシズム、プロ文学、言論の制約、戦争と文学、敗戦後、、、、などが並んでいる。

率直な物言いで作家らの真実がみえる感じもする。瀬戸内寂聴の「奇縁マンダラ」を思わせる書きぶりだった。こういう気楽によめる同時代史は意味がある。

若い時代に戻りたいという人はいる。しかし、あの先の見えない、疾風怒濤の、迷いの多い、そして無数の選択を突きつけられた、あの時代に本当に戻りたいだろうか。煩わしい、そして怖い感じもある。それだけ世の中を渡ることは危険に満ちている。正宗白鳥の告白に私も共感する。

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