見出し画像

「名言との対話」7月14日。坂本繁二郎「私は、まるで牛のように、牛を描き続けたものです」

坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。

2022年に久留米で「坂本繁二郎生家」と「青木繁旧居」を訪問した。この二人は近所に住む小学校時代からの親友、ライバルだった。二人は久留米のいう小学校以来の付き合いである。青木は早熟の天才、「神童」と呼ばれた坂本は晩成の鈍才。青木は27歳で夭折、坂本は87歳の長寿だった。二人は、対照的な生涯を送った。

坂本は久留米にいたが、上京した青木の絵の上達ぶりに刺激されて上京し、不同舎、太平洋画会研究所にまなぶ。第1回文展に入選。のち二科会の創立に参加した。フランス留学後は郷里の福岡県で「放牧三馬」など馬をテーマに制作。晩年は能面や静物などをえがいた。1956年に文化勲章を受章した。

坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にブリジストン創業者の石橋正二郎(1889-1976年)や、政治家石井光次郎(1889-1981年)がいた。石橋が青木繁坂本繁二郎の絵を収集したのもこの縁である。2011年に東京のブリジストン美術館青木繁展が開かれたのもそういう流れの中の一コマである。このとき、私は青木の「海の幸」をみて衝撃を受けた。私のイメージと比べると小さかった。それでもタテ70.2センチ、ヨコ182センチの横長の大作だが、昔教科書で見た鮮烈なイメージの大きさほどではなかった。しかし、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目である。

青木繁は「海の幸」以外に、「わだつみのいろこの宮」「大穴牟知命(オオナムチノミコト)」などの作品を描くが、父危篤の報を受けて久留米に帰り、以後熊本、佐賀方面を放浪。福岡にて28歳の生涯を閉じる。
青木の没した翌年に坂本繁二郎などの友人が「青木繁君遺作展覧会」を開催する。青木の作品に好意的であった夏目漱石は「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思ひます」と友人あての書簡の中で書いている。そしてその翌年に「青木繁画集」が刊行された。青木は死後に評価を高めた。
友人の坂本繁二郎は、「流れ星のような生涯だった」と言い、蒲原有明は「比類のない伝説のようだ」と青木の生涯を総括している。福田たねとの間に生まれた幸彦は、後の尺八奏者、随筆家である福田蘭童で、ある。

谷口治達『青木繁 坂本繁二郎』西日本新聞社)には、高等小学校時代からの友人二人の軌跡が描かれていて興味深く読んだ。28歳で夭折した早熟の天才・青木繁と、明治・大正・昭和と87歳まで画業を全うした晩成の坂本繁二郎
二人の友人であり早稲田大学を出て故郷で旧制中学の国語教師をしていた梅野満雄の二人の比較がよく特徴をとらえている。「彼らは大いに似て大いに異なるところが面白い対照だ。同じ久留米に生まれてしかも同年、眼が共に乱視。彼は動、是は静。、、青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に棲む。彼は浮き是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成。、、、」

坂本は人間の根本問題は宗教だとし、自分の絵は宗教ともいえると言っている。その宗教は自然教とでもいいましょうかと言い、仏教の、それも禅に近いとしている。その自然の一つでもある「牛」を好んで描いている。動物の中でいちばん人間を感じされるのだそうだ。坂本繁二郎は「まるで牛のように、牛を描き続けた」のだ。87年の歩みは、牛の如くであった。
夏目漱石は「牛のように図図しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います」とある。 これは大正五=一九一六=年八月二十四日、芥川龍之介久米正雄(25歳)宛書簡にある漱石の言葉である。

周囲に迷惑をかけ続けた青木繁は悲劇の天才であり、人格者・坂本繁二郎は求道の画人であった。どちらにも「繁」という字がついているのが面白い。

人物論は、その人だけを追うのがスジではあるが、ライバルとの比較をすることによって、人物の特徴がよく理解できる場合がある。青木繁坂本繁二郎はその例である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?