「名言との対話」12月28日。安達峰一郎「自己に神性の衣をつけることーー自らを神格化することが裁判官の義務である」
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉 - 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。
山形県三辺町出身。15歳で上京し、司法省法学校を経て、東京帝大法学部仏法科を卒業。外務省に入省。日露戦争のポーツマス会議で小村寿太郎全権の随員として活躍。1908年、駐フランス臨時代理大使として日仏通商航海条約をまとめる。1913年、駐メキシコ公使。1917年、駐ベルギー公使、大使としてヴェルサイユ講和条約、国際連盟の初会議で活躍する。
国際連盟下の常設国際司法裁判所の創設に貢献。国際連盟では1921年から1929年の総会では日本代表、1929年委は理事会の議長をつとめた。
1930年に常設国際司法裁判所の裁判官、1931年には所長に選出された。満州事変、国際連盟脱退の時期であったため苦労もあった。任期を終えた後、病に倒れ65歳の生涯を終える。オランダは国葬の礼をとった。葬儀はハーグの平和宮で行われた。
安達峰一郎記念館を訪問することができなかったが、手元に学士会報に掲載された小和田恒「七十年ぶりに帰った曽遊の地ーー安達峰一郎博士の肖像画」という論文があったので読んだ。2006年に安達の肖像画の除幕式のために準備した文章である。筆者は国際司法裁判所裁判官で、雅子皇后の実父である。
歴代裁判所長は肖像画が展示される慣例があったが、辞任直後の混乱でそうならなかった。それに小和田が気がつき、展示する経緯をが書かれている。
19歳の安達は「深く国際の法理に通じ、機変に処する秀才あるもの外交の衝に当たり、満腔の熱心を以て之に従事せざるべからず」と国際法を学ぶを述べていた。
国際連盟事務次長の新渡戸稲造は、ジュネーヴ議定書の審議で安達が日本代表として英仏を相手に論陣を張り、日本の主張を認めさせた現場を目撃し、「安達の舌は国宝だ」と絶賛した。岩手出身の新渡戸は7歳年下の山形出身の安達の活躍を喜んだであろう。
同僚の裁判官からは、鋭い洞察力と人物鑑定眼を備えており、裁判官的良心の持ち主と讃えている。安達自身は「自己に神性の衣をつけることーー自らを神格化することが裁判官の義務である」と述べていた。安達峰一郎は日本が生んだ最高の国際知識人、真の国際人であった。
安達峰一郎の生家の雨戸には「故里の春を偲びてなき親の墓を訪ひたく心せかるる」という安達の歌が掲示されている。故郷になかなか帰ることのできなかった安達の心情が偲ばれる。
また、2008年6月20日の山形新聞には、パラオの州知事が遠い親類である安達の墓参りをしたという記事が載っている。祖祖父が博士のはとこにあたるヨシタカ・アダチ知事は「一族で優れた外交官であった博士のぱわーをもらった気がする。パラオに帰って、政治活動に生かしたい」と述べている。6月19日の毎日新聞では「峰一郎先生を常々心に描き政治をしてきた」と、安達峰一郎の生誕祭に訪ずれた知事は語っている。
裁判官は世界共通で黒い法服を着ている。黒という色はどんな色にも染まることはない。裁判官の校正さの象徴なのだ。因みに日本では国会答弁で「法廷が非常に手続きが厳粛にかつ秩序正しく行われなければならない場所であるということからいたしまして、一方ではその公正さと人を裁く者の職責の厳しさをあらわすとともに、他方では法服を着用することによりまして裁判官みずからそのような立場にあることを自覚させるもの」と説明されている。
人を裁くという恐れ多い行為は、本来は人間のなす業ではない。まして国際紛争を裁くという重責を担うには、安達峰一郎のいうように、神になった気持ちで透明な心をもって立ち向かうほかはないだろう。「神性の衣」は裁判官の黒い法服なのだ。
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