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「名言との対話」1月28日。緒方竹虎「言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年(明治21年)1月30日 - 1956年(昭和31年)1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。

福岡修猶館中学から、京都や九州の帝大に進んだ兄たちと違って、中国相手の実業家を夢見て東京高商に入るが、退学し早稲田大学編入する。そして1年上の親友・中野正剛の誘いに応じて朝日新聞に入社する。ロンドンへの私費留学、ワシントン軍縮会議を経て、腰を据えて新聞事業に取り組むことになった。徳川夢声は緒方を「九州男児がイギリス風のものを身につけている感じ」と記している。整理部長、政治部長、編集局長、主筆、副社長を歴任し、ジャーナリストとして大成する。

二・二六事件で反乱軍の将校が代表者を出せと言ってきたとき、48歳の緒方が出て、体を近接させて応対し、難を回避している。気力においてまさったのである。この様子はNHK大河ドラマ「韋駄天」で田端の上司として緒方竹虎を演じたリリー・フランキーの好演でよくわかった。

山本五十六とは互いに認め合った仲だった。真珠湾攻撃の後、山本は手紙で敵の寝首をかいたにすぎず、敵は決然たる反撃にでるだろうとし、緒方に「銃後のご指導はよろしく願う」としている。

緒方は「一人一業」を理想としていたが、東條内閣の辞職による小磯内閣の情報局総裁という大臣ポストにつくことになってしまった。太平洋戦争は日華事変の延長であり、まず日華の調整から、和平への道を探ることになる。日本が降伏したとき、整然と武器を捨てたが、緒方は「一人の榎本釜次郎、一個の彰義隊が飛び出す位は、あるべきではないか」と複雑な心境を後に述べている。東久邇内閣では緒方は書記官長に就任した。公職追放となり、「これからあとは、すべて余生だ」として借家に戻った。自分の人生を凝縮した時間を持った。7年間の浪人生活を送る。

戦後、吉田茂内閣の官房長官、すぐに副総理になった。池田勇人佐藤栄作がまだ若く、吉田の後継は緒方が筆頭であった。緒方は吉田茂流の詭弁は認めず、自衛の軍であっても憲法に書き込むべきだという考えだった。保守合同の機運をそがないために、佐藤栄作幹事長逮捕に関し、法務大臣の指揮権発動に力になった。苦境に陥った吉田が解散を考えたのに対し、緒方は憲政の常道に反するとして退陣させている。緒方は自由党総裁に就任した。そして死が訪れる。67歳。

緒方の死は日本の政治史上の一大痛恨事であった。野党党首の鈴木茂三郎も「痛惜の至りにたえません」との心のこもった追悼演説を行った。またイギリスのタイムスも惜しんでいる。風采。弁舌。勇気。経歴。基盤。貫禄。素養。風格。筆力。このどれをとっても、優れていた緒方竹虎は、良質な保守政治家としての資質にあふれていた。緒方竹虎という名前は、頭山満中野正剛や、政治家の事績をたどると、よく目にする。今回、三好徹の警世の書『評伝 緒形竹虎』を読んで、この人の偉さがよくわかった。

言論人としての緒方は、主張のため新聞を発行するなら、広告依存度の高い大新聞よりも、週刊誌のほうがいいとも言っている。確かに現在でも週刊誌の威力は大したものだ。そして軍部による新聞の廃刊の脅しの中で、新聞の轡ぞろえができず、戦争への道を許したことを反省しながら、「言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」と述懐している。今もまだ生きている教訓である。

緒方竹虎は新聞人、そしてはからずも大臣ポストにつき、公職追放となって7年間の浪人生活を送る。ここまでだと、近代を生きた人ということになる。しかし、世間は緒方を放っておかずに、戦後政治の中枢に押し上げつつあった。もし、緒方の寿命がもう少し長かったら、もう少し生きて、現代へのつなぎをやっていたら、日本はどうなっていただろうか。惜しみてあまりある人物である。


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