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1月3日。三岸節子「画家は長く生きて成熟した作品を描くことこそが本領」

「名言との対話」1月3日。三岸節子「画家は長く生きて成熟した作品を描くことこそが本領」

三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家。

愛知県尾西市生まれ。19歳、女子美術学校を首席で卒業。同年画家の三岸好太郎と結婚。29歳、夫が急31歳の若さで急逝。30歳、D氏賞。40歳、戦後銀座の日動画廊で個展。43歳、菅野圭介と別居結婚。48歳、離婚。49歳、渡仏し長男・黄太郎と会う。50歳、帰国。62歳、好太郎の遺作を寄贈し北海道立美術館が創設される。63歳、黄太郎一家と渡仏し、定住。69歳、ブルゴーニュに農家を購入。70歳、渡仏。78歳、北海道立三岸好太郎美術館が開館。81歳、勲三等宝冠章。85歳、朝日賞。87歳、三岸好太郎と三岸節子典。89歳、女流洋画家初の文化功労者。93歳、尾西市に三岸節子美術館が開館。94歳、逝去。

夫の三岸好太郎の北海道札幌の立派な美術館には2009年に訪問したことがある。31歳で夭折した画家だ。どうしてこのような立派な美術館があるのか、不思議に思った。この美術館は節子の62才の時に開館している。また節子自身の美術館は93才という亡くなる直前に開館している。夫婦そろって美術館があるのは珍しい。妻の節子は94才まで画業を続けているというように対照的な人生だった。

2010年4月には日本橋高島屋で行われた「没後10年記念 三岸節子展 心の旅路−−満開の桜とともに」をみた。最近発見された日記と代表作をからませながら展示するという好企画だった。「絵を描くことは、長く遠く果てしない孤独との戦いである」という言葉が印象に残った。

今回の企画展では最近発見された日記の文章を絵に添えるという試みが成功している。この画家は、画風をどんどん変えながら、長い生涯にわたって絵を描き続けたが、言葉にも心打たれるものがある。その言葉も年齢とともに記してあったので実感がわく。

・世に謂う安穏な暮らしというのが、私にとって一番の敵なのである。身を棄ててかかっているのである。
・骨を噛む悔恨と孤独。ギリギリの地点まで自己をつっ放して安心立命したいと希う。それをしなければ私は救われないのである。57才
・家族近親の面倒を見てそれが満足だというのか、なんと味気ないことだろう。60才
・私の運命は好んで困難な道を歩む。、、なんというむずかしい世界か、しかしやり遂げねば。カーニュに死すともよし。64才
・絵を描くことは、長く遠く果てしない孤独との戦いである。64才
・もっともっと深く掘り下げて、根元の自己をつかみだしてもっと根の深い作品を描きたい。広野の一本の大木のように何百年も生き続け生命力が得たい。68才
・新鮮な、シャープな、繊細な、ピリピリした花を描きたい、、、、痺れるような美しい花の絵を描いたい。72才
・まだまだ生きている間は、一枚の作品に年齢相応の深い味わいを出してゆきたい。72才
・私には才能がない。ただ努力と根と運があるだけで今日まで歩いてきた。、、才能である。才能の不足である。73才
・私は人物が描きたい。最後の仕事は人物とゆきたい。92才

2022年の現在、私にはこの画家が、最後に人物画にいき着いたことに共感を覚える。

今年、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』(文芸春秋)を読んだ。吉武は子の伝記を書く中で人間が生きている限り限界がないことを感じている。長く生きた者のみが作り出すことのできる人生の豊穣さに感銘を受けている。

以下、吉武が記した三岸節子の言葉。

「芸術の力がどれだけ絶望のどん底に落ち込んでいる人たちの心を励まし、和ませ、人間としての気品を取り戻させ得ることができるか」。

「スケールの大きい、欲張りな仕事は長生きしなければできませんね。、、、長い画家生活の中には山があり、谷があり、暴風もあれば雪も古けれど、じりじり少しずつ人間として、充実させ押し進めていく生活、耐久力が大切ですね。ねばらなくては駄目ですよ。いかに芸術家として本当に充実した精神の生活を送るかということ、それが芸術家の一番大切なとであり、まさ最上の幸福なのだということをいつも考えております」

「画家は長く生きて成熟した作品を描くことこそが本領」が持論であった三岸節子は、修行僧のような生涯を送ったのだ。タイトルに採用したように、まさに「炎の画家」と呼ぶにふさわしい。

三岸節子を書いた吉武輝子にも興味がわいた。恐るべき執念で対象に迫っている。吉武 輝子(よしたけ てるこ、1931年7月27日 - 2012年4月17日)は、日本の作家・評論家。 女性表現者の伝記をライフワークとする。その合間に生き方をテーマとしたエッセイを多数書いている。

伝記は、古屋信子、高木徳子、淡谷のり子、そして三岸節子。20年間、5年に1冊のペースだ。プライバシーの問題、スキャンダルをどこまで書くか、聞き書き、取材、資料集めの時間と労力、そして超人的な生命力の持ち主とがっぷり四つに組むという気力と体も必要だ。伝記が完成するまでは長い時間がかかる。吉武の場合だと、本人、家族、遺族、友人、知人に会って、信頼をえるまでに2、3年の時間がかかる。さらに聞き書き、巣材、資料集めに2、3年。そして執筆に1年である。

この根気は並大抵のものではないことは容易に想像ができる。三岸節子の場合は、生涯が長く、かつ仕事も変化に冨み、膨大であることもあって、9年越しの仕事となった。

伝記に関わると本が増える。趣味の読書ならそう増えるものではない。「物書き」という仕事は本が増えるのは宿命だ。中でも伝記に手を出すと、集め出すときりがなくなるので、破産するともいわれる。私の場合も、「名言と対話」を書くために否応なく本を読まざるを得ない。だから本がどんどんたまっていく。

一人の人に焦点を定めるのではないし、ある時点で私が理解したところを書くという方針なので、読むべき本は一人については多くはないが、それでも一人一冊というペースだから、本は自動的にたまっていく一方だ。欠点や暗部などを含めた人物全体をまるごとみていないという疑問を呈されることもあるが、後進として先達から何をまなぶかを主眼としているから、伝記作家とは違った道を歩んでいることになる。誰か一人を深掘りしてみようかと考えたこともあったが、今はこの道を歩み続けるつもりだ。



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