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5月30日。粕谷一希「金は遣えば無くなるが、頭は使えば使うほど良くなる」

粕谷 一希(かすや かずき、1930年2月4日 - 2014年5月30日)は東京府出身の日本の評論家、編集者、出版事業家。

名刺一つで総理にも乞食にも会える仕事はほかにはない仕事であり、苦労も多いが自由を満喫できるのが編集者であると考え、粕谷一希は生涯一編集者として過ごした。「編集とは筆者とテーマの選択的構成である」と定義した粕谷は、イデオロギーを嫌った、保守感覚と現実主義の潮流を築いた名編集者だった。

大学を卒業して大正時代に花開いた中央公論社に入社。「中央公論」、「婦人公論」、「思想の科学」を経て、「中央公論」のデスク6年、そして1967年より編集長(3年)と、23年間を中央公論社で過ごした。この間、永井陽之助、高坂正堯、萩原延寿、山崎正和、塩野七生、庄司薫、高橋英夫、白川静などを世に送り出した。塩野七生も最初に『ルネサンスの女たち』を中央公論に書かされたし、寺島実郎も粕谷が目をつけて中央公論にデビューさせている。編集者は著者より偉い人が多いのだ。大編集者・粕谷一希は名伯楽だった。

1978年退社後も、1986年『東京人』編集長、『外交フォーラム』。1987年、都市出版社を設立するなど編集の道を歩む。

雑誌連載が単行本になった中で面白かったのは松本重治『上海時代』と石光真人『ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺書』であったと粕谷は回想している。私は粕谷の編集とは知らなかったが、いずれも熱中して読んだ名著である。

「戦後論壇は、京都人の梅棹忠夫と大阪人の司馬遼太郎が制覇した」という粕谷は、その流れをつくった人でもある。2008年に大阪で開催された「梅棹忠夫先生の米寿を祝う会」で、粕谷は私の席の前に座っていた。この人があの粕谷一希かとある種の感慨を覚えたことがある。

「偉大なことをするのは、素人が多い」「どのような栄耀栄華を得ようが、若き日の旧友の眼に耐えられない人生は空しい」

筆者や作家の粕谷像は「賢者の風格。叡智の言葉。良き書生。編集者が死ぬと時代が変わる」などである。名編集者・粕谷一希の人物が匂うようだ。

「頭は使えば使うほど良くなる」は夫人が観察した粕谷の口癖である。「日本が知的になるには、本を大事にするということから始めなければならない」、そのことが日本人を知的にすると信じていた。粕谷一希は、編集という天職を全うする中で、優れた人物との交流を続けながら、自らの生きた「時代」と格闘したのである。


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