「名言との対話」12月27日。加藤保男「回ってきたチャンスはその場でとびかからないと逃げてしまう」

加藤保男(かとう やすお、1949年3月6日 - 1982年12月27日)は、日本の登山家。

加藤保男『雪煙をめざして』(中公文庫)を読んだ。登山家として著名な加藤保男とは私と同じ学年だったことが分かった。エベレスト登頂三度の快挙を果たしながら、三度目の下山途中で亡くなったのは33歳のときだった。「僕」という言い方を含め若い登山家の放つ英気を感じるさわやかな自伝だ。亡くなる前年に書いた本である。

兄・滝男に先導され、日本の穂高に登り、ヨーロッパのアルプスでアイガー北壁の直登ルートを征服し、さらにヒマラヤへと向かう。岩と氷の世界に果敢に挑戦し続けた天才クライマーは、8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパール、チベット両側から登頂したのは世界初である。加藤自身は「二つの別の山、チョラモンマとエベレストに登ったのだと思っている」と述べている。エベレスト3シーズン(春・秋・冬)登頂も世界初だ。

1974年、エベレスト登頂で、両足指、右手中指、薬指、小指の第一関節から先を切断し、身体障碍者になった。1980年5月3日 - エベレスト(チョモランマ)にチベット側の北東稜から登頂。下山中に8,750mでビバークとなったが、無事に下山した。1981年10月 には 尾崎隆ら3人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂を果たした。

そして、1982年12月27日 、 日本人初の冬期エベレスト登頂を果たした(東南稜)が、下山中に消息を絶った。「成功を優先すれば生命が危ない。生命を大事にすれば成功はおぼつかない」と「あとがき」で語っているように、最高峰への挑戦は体調と天候を見きわめながらの進退の決断の連続だっただろう。限界に挑み続けていると、いつかは命を落とすことになる。加藤の山の友人、知人で山で亡くなった人は多い。ライバル意識を持つようになった兄・滝男は、今年2020年3月に76歳で死去している。

「回ってきたチャンスはその場でとびかからないと逃げてしまう」は、「幸運の女神に後ろ髪はない」ということわざと同じ意味だ。加藤保男は高峰や難所に誘われるたびに、即断即決で参加を表明して、自分の世界を広げている。そうでなければ、30歳を少し過ぎたあたりで、世界最高のクライマーにはなれなかっただろう。チャンスはリスクと同義語だ。

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