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「名言との対話」2月26日。河東碧悟桐「たとふれば独楽のはじける如くなり」

河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎。 享年64。

愛媛県松山市生まれ。中学同級生の高濱清(後の高浜虚子)とともに、6歳で知った同郷の正岡子規に兄事し野球と俳句を学ぶ。大学生の子規と中学生の虚子と碧悟桐である。二人は三高から二高に編入、中退。

日本新聞社に入社。24歳、入院中に心を寄せていた下宿の娘は虚子と結婚する。27歳、「ホトトギス」に入社し虚子を助ける。子規の死にともなって、30歳、新聞「日本」俳句蘭の選者の子規の後任となるが、虚子と碧悟桐はしばしば論争するようになる。

33歳、17カ月の全国行脚で「一日一信」(のち「三千里」)を「日本」に発表。豊前中津、耶馬渓も訪れている。再び「続三千里の旅」を敢行、38歳で完結した。その後、新傾向俳句を提唱するが、「ホトトギス」は、これを俳句破壊として位置付けた。碧悟桐は定型、季語にとらわれず自由律俳句、ルビ俳句に挑んでいき、虚子とたもとを分かつ。

45歳では中国旅行、さらに48歳にはヨーロッパ、アメリカを巡遊する。50歳、満州朝鮮紀行。54歳、日本各地を巡遊し、和歌と俳句の領域撤廃をめざし、短詩を提唱している。還暦祝賀会で俳句からの引退を発表。

中塚唯人・日野百草編『碧悟桐句集』(海紅文庫)をkindle版で読んだ。

碧悟桐は、膨大な仕事をした人である。句風を常に変化させ続けた。何度も生まれ変わった。感激するとどんどん入っていける自己革新の人であった。「調和」を主とする虚子は正統の保守派であった。

碧悟桐の代表作として有名な句は「赤い椿白い椿と落ちにけり」だ。この句は俳句の大衆化の象徴だった。以下、碧悟桐の初期の句。

 春さむし水田の上の根なし雲

 清水汲んで君を思ふべき別れかな

 乳あらわに女房の単衣襟浅き

 おしろいの首筋寒し梅二月

 馬過ぐる四谷見附や雪の朝

新傾向俳句の時代の句のいくつかをあげてみよう。季語にこだわらないため、題材が人事に寄っていて、それが強みとなっている感がある。

 山吹咲く工女が窓々の長屋

 炭挽く手袋の手して母よ

 お前と酒を飲む卒業の子の話

 最後の話になる兄よ弟よこの火鉢

 弟を裏切る兄それが私である師走

 三家族の揃うた朝の新豆むしる

 水道が来たのを出し放してある

 大根を煮た夕飯の子供達の中にをる

「覚醒的自我による動的自然描写」「万有は季語であらねばならぬ」など言葉が印象に残った。

姪の回想で碧悟桐の日常が記されていた。火鉢一つだけ書斎に持っていく。冬は椅子に腰かけて足から膝上まで毛布をかけて執筆する。夏はズボン下とランニングシャツで原稿を書く。おしゃれは人であったそうだ。

碧悟桐の年譜を追うと、句風がどんどんかわっている。その都度、生活を一変し、のめり込んで業績を打ち立てる。すぐれた俳人の数人の仕事をした、豊かなエネルギーの噴出するタイプの人であると感じた。

碧悟桐はまた旅の俳人であった。二度の日本各地を訪ねる大旅行、それ以外にも小さな旅を積み重ね、句を詠んでいる。そして中国も旅する。そしてヨーロッパを周遊し、帰りにはアメリカをみている。再度の欧米旅行も企画していた。旅の俳人であった芭蕉にも比すべき俳人だった。

虚子とは愛憎の生涯だったのではないか。中学の同級生で、俳句の道に志した親友は、恋愛のライバルとなり、一緒に研鑽を積んだ俳句の道でもやがて袂を分かつようになる。自由律俳句は、ある種の天才でなければ、駄句にになる可能性が多く、危険だから、主流にはならなかったと思う。

碧悟桐がなくなった時の虚子の追悼句は「たとふれば独楽のはじける如くなり」だった。始終まわり続け、はじけるような勢いで立っている独楽のような人であり、人生だったとの感慨を詠んでいる。

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