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「名言との対話」12月29日。三遊亭円楽(5代目)「毎度お運びでありがたくお礼申し上げます」

五代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1932年12月29日 - 2009年10月29日[1])は、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の落語家。

長身で端正な容姿を持ち、若い頃から、7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。1962年、真打に昇進し、三遊亭圓楽を襲名する。

1966年、日本テレビ『笑点』の放送が始まり、大喜利の回答者として出演。1978年、落語家協会の分裂騒動で師匠の六代目圓生と協会を脱退。

1983年、「笑点」に復帰。南伸介の急死で司会者となり、以後、2005年に桂歌丸に交代するまで歴代最長の23年間続けた。日曜日夕方の「顔」として、「笑点」でテレビと落語を結びつけた功労者で、最も知名度のある落語家の一人となった。私もファンだった。

『五代目 三遊亭圓楽 特選飛切まくら集』(竹書房)を読んだ。圓楽の落語の「まくら」だけを集めた本だ。

「まえがき」では、六代目円楽は、「博識の人」「アドリブが苦手」「不器用」「稽古と努力の人」「映画マニア」と評している。

落語家協会の分裂時は、年間200日以上地方回りをやっている。歌丸から「俳句を詠まねぇ松尾芭蕉」と言われている。地方ではかならず村長が出てくる。「あんなバカが、よく幹事長になったね」と地元の人の言葉を紹介している。バカは自民党の金丸幹事長だ。「小才の利く奴は、大物になれません」と談志を笑い、返す刀でボーとしてる自分は大物だと笑わせる。プロ野球の意外性の男「山倉」はナマクラだ。野村のいう裏の裏をかけ、については裏の裏は表だといって笑わせる。直木賞は伸びるが、芥川賞は伸びない。世の中は二ついいことはない。外套を脱げと言われて、「外套(街頭)演説」と返した吉田茂の逸話。笑うと横隔膜を刺激し五臓の働きを活性化する。、、、。

講談は「読む」、浪曲は「語る」、そして落語は「話す」という。落語は「枕」と「本題」と「落ち」で構成されており、マクラは最初に場を温める役割がある。この本を読むと、圓楽の「まくら」は、「一杯の」「毎回の」などもつくことがあるが、必ず「毎度お運びでありがたくお礼申し上げます」から始まっている。

講演などでも、本題に入る前に、私もその土地の名所、名物、偉人、自分との縁などの話題から入ることがある。それは、注意を引き付け、親しみをもってもらうための「つかみ」だ。落語のマクラと同じである。

講演では最後は「落ち」というわけにはいかない。本題のまとめ、教訓、あるいは結論、今後の展望などを話すことになる。論文を書く場合も、「序論」「本論」「結論」という3段階で書くのが常識となっている。みな同じである。

圓楽のマクラの源の一つは、映画であった。時間があると映画館で映画を観るという習慣があった。地方公演でも必ずそうしている。その映画の話題をマクラで使っている。この本のマクラでも、映画「ハスラー」のパート2をみてきたことから始まっていたものがある。読書と映画という独自の泉が、豊かなマクラにつながっていたのだ。後継者の6代目円楽は、それを「博識」と評したのであろう。

それでは、お後がよろしいようで、、。

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