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「名言との対話」6月3日。八田一朗「一枚の紙は頼りないが、何百枚も重ねれば立派な本になる」

八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本レスリング選手指導者政治家

広島県江田島生まれ。早稲田大学政経学部に入学。嘉納治五郎の秘書をしていたときに柔道からレスリングに転向しレスリング部を創設。1932年のロサンゼルスオリンピックに日本のレスリング選手として初出場。戦後、日本レスリング協会会長を37年間つとめレスリングの黄金時代を創出した。

独特の選手強化法で監督として選手を鍛え、1952年のヘルシンキで金メダルを獲得、1964年の東京オリンピックでは金5個、そして総計金20、銀14、銅10のメダルを獲得するという大きな功績をあげた。

私は中学時代に、遊びに行った近くの高校でレスリングの練習を興奮してみたことがある。今顧みると、東京オリンピックの前後であった。レスリングが日本のお家芸であった時代だったのだ。それは八田一朗の時代であったのだ。

八田がレスリングをとおして世に出したのは、松浪健四郎ロッキー青木ら1000人に及ぶ。サンダー杉山や、「プロが栄えればアマも栄える」との口説き文句でジャンボ鶴田をプロレスに送り出している。1965年には参議院議員となる。スポーツ議員第1号である。

「八田イズム」と呼ばれた選手の鍛え方は尋常ではなかった。「ライオンとのにらめっこ」「左右ともに利き手とする」など、数々のエピソードが残っている。

このインテリスポーツマンは高浜虚子に師事し俳句もつくり、「ホトトギス」の同人であった。「狩りの犬 獲物を追って どこまでも」と詠んでいる。この犬は、八田自身である。一生かけて、どこまでもレスリングを極めていった。「日本レスリングの父」と呼ぶにふさわしい称号だ。レスリング世界のパイオニアである。

八田一朗は「一枚の紙は頼りないが、何百枚も重ねれば立派な本になる。毎日の練習も同じで、そのような一枚一枚の積み重ねが大切だ」との練習観を持っていた。マラソン君原健二も「努力の成果なんて目には見えない。でも、紙一重の薄さも重なれば本の厚さになる」と同様の趣旨の言葉を『君原健二聞き書きゴール無限』(文芸社)で語っていて私は感銘を受けたことがある。

一日一枚の努力は一年で365枚の本になる。私たちは自らの絵筆で日々の暮らしを積み重ねながら「一冊の書物」という人生を描こうとしている。その表紙にはどういうタイトルがふさわしいのか、それは最後までわからない。一枚一枚に綴る日々を充実させることで、その本は名著になる可能性もある。八田一朗のこの心構えは自身を傑人としただけでなく、多くの人たちに大きな影響を与えたのだ。八田一朗という人物の表紙は「日本レスリングの父」だろう。

若い時代に仕えた「柔道の父」嘉納治五郎に「レスリングを始めるのもよいが、50年かかるよ」と言われているが、まさに八田一朗は50年かけて、新しい世界を確立したのである。八田一朗の生涯は、師である嘉納治五郎の言葉への回答であった。


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