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「名言との対話」7月2日。堀文子「群れない、慣れない、頼らない」

堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。

女子美術専門学校(現女子美術大学)師範科日本画部入学。在学中に新美術人協会第2回展に初入選を果たす。34歳のとき、第2回上村松園賞を受賞。42歳で夫と死別。54歳で手がけた、絵本『くるみ割り人形』が、イタリア・ボローニャの第9回国際絵本原画展でグラフィック賞を受賞。69歳からイタリア在住。77歳から、アマゾン、マヤ遺跡、インカ文明を訪ね、81歳にはヒマラヤを取材。一つの場所に安住せず、絶えず新しい感動を求めて旅をし、居を変える「一所不住」を自身の信条としていた。亡くなる前年まで、毎年展覧会が開催されている。生涯現役の画家であった。
堀文子は5歳で関東大震災に遭遇している。しっかり者の母も含めてみな我を失っていた。一人年取ったばあやだけが冷静だった。そのばあやが総大将になって冷静に大震災を乗り切った。なぜその婆やは冷静で沈着だったか。この人は1955年の安政の大地震の経験があったからだ。マグニチュード6.9、その32時間後にマグニチュード8.4の南海地震が起きている。そして翌年に安政江戸大地震が続く。つまりこの3つの地震は連動していた。ばあやは、安政の大地震を知っていた。長生きをするということはこういうことだ。幼い文子は「あるものは滅びる」って声が電流のように全身を貫く。幼い心が悟りを受けた。この世は無常だ。一切なくなってしまうという人生観で自然を描き続けたのである。
箱根の成川美術館には100点を超える堀文子コレクションがある。「何かをやっている人というのは、それが運命なんですね。好きだから、などというものではない。私もただこの道を行く方がいいという予感があっただけ。六十を超えて、ようやくそのことがわかってきた気がします」。この美術館で「山本丘人と堀文子」展をみたことがある。二人とも「同じものは描かない」という信念を持っていた。師の山本丘人「表現の方法を新しく模索して、その作品は自らの心象風景として昇華していく」。堀文子は「たえず興味や関心の対象を変える」とし、常に新境地を生み出し、「私には一貫した画風はない」と語っている。
「花の画家」と呼ばれる日本画家・堀文子の「サライ」のエッセイを私もよく読んだ。また雑誌「致知」にインタビューが出ていたのを興味深く読んだ。

、、皆さん、褒めてくださいます。貶す方はおりません。危険なことです。
恐怖の連続です。そして絶えず、ああ、ダメだ、無能だと思う。その無念が私の道標で、私に絵を続けさせている原動力です。満足したことはない。
大抵は若い時にちやほやされて、ダメにされるんです。
自分を堕落させるのもよくするのも自分なんだ。
安全な道はなるべく通らない。不安な道や未知の道を通っていくとか、獣道を選ぶとか。大通りはつまらないと思っている人間で、それがいまでも続いている。
いつ不安の中に身を置いて、昨日をぶち壊していくということです。ですから学ぶよりも「壊す」というのが私のやり方です。そして過ぎたことを忘れることです。
いつも自分を空っぽにしておくということです。
私には必ず不安なほうを選ぶ癖があります。そのほうが初めてのことでビックリするから元気が出ます。とにかく自分をビックリさせないとダメです。

堀文子は「群れない、慣れない、頼らない」「闘わず屈服せず」という厳しい生き方が信条だった。そして「最後の最後まで、少しでも、一ミリか二ミリでもいいから、上り坂でいたいと思います。そして惨めに死ぬのではなく、生き生きと死にたい、と思っております」と語っていたとおりの生涯を送り、享年100のセンテナリアンとなった。人生100年時代の生き方のモデルの一人である。

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