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「名言との対話」5月31日。嶋田青峰「朝寒のこの道を行くつとめ哉」

嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本俳人翻訳家新聞記者教員

三重県志摩市出身。早稲田大学英文科卒。高女や中学の教師を経て、1908年に国民新聞に入社。高浜虚子が担当する「国民文学」欄の部員となる。虚子が俳句雑誌「ホトトギス」に専念するため退職し、青峰は文芸欄を担当するい部長となった。

青峰は仕事の傍ら、虚子の「ホトトギス」を手伝うことになった。虚子が病と新傾向俳句と闘っていた苦しい時期に編集を任されれ、「今の世に珍しいほど隠れたる努力を惜しまない人である」と虚子から感謝されている。

1920年、青峰は「ホトトギス」の編集を下りた。1926年、主宰者が亡くなって青峰は句誌「土上」を引き継ぐ。この雑誌はしだいに新興俳句運動の中心となっていった。

虚子が戦っている、無季俳句の新興俳句の中心人物と目されて、青峰は虚子の門弟たちから攻撃を受け、1930年に「ホトトギス」から除名された。

戦時色が濃くなった1940年に「京大俳句事件」から始まった新興俳句弾圧は、東京の「土上」の青峰ら幹部が進歩思想者として治安維持法で逮捕され、「土上」は廃刊となった。1944年青峰は死去する。

師や仲間への裏切りという面と、茂吉なども詠んだ聖戦俳句の色彩を帯びていく俳句界からの批判という面で、青峰は苦境に立たされたのだ。

青峰の晩年は、「花鳥諷詠」を奉ずる虚子門下から「天罰」といわれ、見舞客もなく、葬儀も閑散として淋しいものだった。虚子からはお悔やみ状と香典が届いた。青峰の父の死去に際して虚子は「兄弟の喪にこもり寝る蚊帳一つ」という句を弔電で打っている。

青峰は師の虚子からの厚い信頼があり、友人や弟子にも恵まれた時期もあったが、敵である新興俳句側に立ったことで、淋しい晩年を送ったのである。

俳号の「青峰」は故郷の標高336mの青峰山(あおみねやま)に由来している。青峰の俳句では、「朝寒のこの道を行くつとめ哉」「わが影や冬の夜道を思伏せて」「市に暮るる師走の人の眉太し」「秋晴れや海のほとりに帰りけり」などがいいと思う。嶋田青峰という人は、温厚で誠実な人柄だったので、人間関係と時代の波の罠にはまったのかもしれないと同情する。「青峰忌」は夏の季語としてうたわれている。


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