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「名言との対話」1月22日。椋鳩十「死の瞬間まで、命の火をほうほうと燃やす。美しい生き方だ。こういう生き方なら、あの世に旅立つにも悔いがない」

椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家。

長野県生まれ。飯田中学を経て法政大学文学部に進学。21歳、初めての詩集『駿馬』を自費出版。25歳、法政大学を卒業し鹿児島県の種子島の高等小学校の代用教員、加治木高校教師。33歳、「少年倶楽部」に「山の太郎熊」を発表。

1947年42歳、鹿児島県立図書館長。55歳、「母と子の20分間読書運動」を呼びかけ全国運動に。59歳、『孤島の野犬』が産経児童出版文化賞と国際アンデルセン賞国内賞。61歳、図書館長を退任。

62歳、鹿児島女子短大教授、附属図書館長。66歳、第1回赤い鳥文学賞・児童福祉文化奨励賞。67歳、読書運動により文部大臣賞。73歳、教授を退任。

76歳、『椋鳩十全集』(ポプラ社)26巻完結。鹿児島県民教育文化研究所を設立。77歳、芸術選奨文部大臣賞。1987年82歳、永眠。

1990年、鹿児島県に椋鳩十文学記念館。1991年、長野県に椋鳩十記念館・記念図書館。

長野県の伊那谷での動物とのふれあい。飯田中学では、『狩人日記』と『ハイジ』が運命の書となる。また英語の正木ひろし先生と国語の佐々木八郎先生と出会う。法政大学では、豊島与志雄先生と森田草平先生が生涯の師となった。

家を持たずに山間を移動しながらテント生活をおくる山窩という人々に多い「小椋」の姓から「椋」を、加治木のかやぶきの屋根にとまる鳩を思い出して、鳩椋十というペンネームにした。

加治木高校の山口斉校長の後押しもあった「少年倶楽部」の須藤憲三編集長からは少年向けの野生的な物語を依頼される。動物の生態を調べて切り取り、文学的に豹変し、「命」の物語にしようと決意する。そして南アルプスの秘境・遠山の「星野屋」のおやじのアドバイスで狩人から話を聞くというスタイルができていく。戦時中は野生動物の姿を描くことで、生きること、愛し合うこと、命のすばらしさを書いている。

館長をつとめた鹿児島県立図書館では、19年にわたり自動車図書館、市町村の図書館づくり、地域の読書グループ育成、などを行い、「鹿児島方式」として全国に影響を与えた。1960年委は「母と子の20分間読書運動」をスタートさせている。図書館館長時代は、夜中から朝4時まで執筆し、朝風呂をあびて出勤するという生活スタイルを続けた。

70歳頃からは、離島に生きる人々を対象としたノンフィクションにとりかかる。徹底した取材で、生涯で200冊以上の本を書いたのだが、その半数以上は60歳以降である。」

7000年の命を持っている屋久島の縄文杉をみて椋鳩十は感動する。「死の瞬間まで、命の火をほうほうと燃やす。美しい生き方だ。こういう生き方なら、あの世に旅立つにも悔いがない」と生き方の理想をみる。

児童文学は「祈りの火を焚く文学」であるという。「「人間、いかに生きるべきか」という態度を、幼い人びとの心の奥に、土台のように、かっちりと、築いてもらいたいという、祈りにも似たものがこめられているのです」。

73歳で仕事をやめて、やっと執筆活動に専念できるようになり、集大成である二つの全集が完結する。子供向きの『椋鳩十全集』全26巻と大人対象の『椋鳩十の本』全25巻+補巻である。82歳でも「まだ死ぬもんか。うんとすばらしい、キラキラしたものを書くんだ」と発言している。

高校教師時代、図書館長時代、短大教授時代、自由人時代、その都度、全力投球で自らのテーマに立ち向かった尊い生涯である。高齢時代の生き方のモデルだ。

今回あかね書房の『伝記を読もう』シリーズの久保田里花『椋鳩十』をじっくりと読んだ。以上はすべてこの本の中から取り出した内容である。この過程で児童文学に取り組む作家たちの仕事の尊さに感銘を受けた。私自身が、椋鳩十という人の生き方に励ましをもらったのである。


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