見出し画像

情報過多な現代社会において本当に頭を使って考えられているかを問う

レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』を読んだ。

『華氏451度』は焚書をテーマにしたディストピア小説で、国民にとって害悪とみなされる本の所持を禁止しすぐに燃やしてしまう社会を描いている。これにより人々を「考える」ことから遠ざけ、戦争中の国家にとって危険な思想が生まれないようコントロールされている。

あらすじはこちら。

舞台は、情報が全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。そこでは本の所持が禁止されており、発見された場合はただちに「ファイアマン」(fireman)と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕されることになっていた。(表向きの)理由は、本によって有害な情報が善良な市民にもたらされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐためだとされていた。密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成され、表面上は穏やかな社会が築かれていた。だがその結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた。
そのファイアマンの一人であるガイ・モンターグ(Guy Montag)は、当初は模範的な隊員だったが、ある日クラリスという女性と知り合い、彼女との交友を通じて、それまでの自分の所業に疑問を感じ始めた。ガイは仕事の現場で拾った数々の本を読み始め、社会への疑問が高まっていく。そして、ガイは追われる身となっていく。
(Wikipediaより)

ざっくり流れを知るにはこの動画がちょうどいい。

これは1953年に書かれているのだが、驚くほど現代社会を生きる我々にとって示唆の富んだ記述が多い。

ベイティーのセリフに現代社会を象徴するような印象的な表現がある。彼は国家側の人間なので、人々が何も考えず不安も覚えない社会こそが平和で理想的であると考えている。

古典は十五分のラジオプロに縮められ、つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、最後は十行かそこらの梗概となって辞書にのる。
フィルムもスピードアップだ、モンターグ、速く。カチリ、映像、見ろ、目、いまだ、ひょい、ここだ、あそこだ、急げ、ゆっくり、上、下、中、外、なぜ、どうして、だれ、なに、どこ、ん?ああ!ズドン!ピシャ!ドサッ!ビン、ボン、バーン!要約、概要、短縮、抄録、省略だ。政治だって?新聞記事は短い見出しの下に文章がたった二つ!しまいにはなにもかも空中分解だ!

現代はまさに「情報取得の効率化」が凄まじい勢いで進んでいる。「10分でわかる〇〇」とか「漫画でわかる〇〇」のようなコンテンツをよく目にする。またここ最近増えてきた動画コンテンツも、短い時間に情報を凝縮して飽きないように作られている。つまり「内容を適切に伝える」よりも「飽きずに消費させる」コンテンツが重視されている。

黒人は『ちびくろサンボ』を好まない。燃やしてしまえ。白人は『アンクル・トムの小屋』をよく思わない。燃やしてしまえ。誰かが煙草と肺がんの本を書いた?煙草好きが泣いてるって?そんな本は燃やしてしまえ。平穏無事だ、モンターグ。平和だ、モンターグ。

現代では「バズるネタ」、つまり「人々が求めているネタ」ばかりで溢れている。そこには情報としての価値は重視されない。世界の貧困問題や差別に関する書籍よりも、女子高生が短い時間で楽しそうに踊っている動画の方をより多くの人が求めているので、資本主義の時代においては自然とそうなるのである。

もう満腹だと感じるまで〝事実〟をぎっしり詰めこんでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。

SNSのタイムラインを眺めていれば大量の「結果」の情報が流れてきて、まるでビールのつまみのように無意識のうちに次々と食べていける。「まとめ」とかライフハック的な記事がこれに該当し、それに至ったプロセスは省略される。何も苦労せずに結果を得られるので、まさに「動かなくても動いているような感覚」である。そして気づいたらつまみでお腹一杯になって晩ご飯が食べられなくなる。果たしてそれは栄養になったのだろうか。


つまり「多くの人が求めていて、かつ消化しやすいように結果だけに削ぎ落とされた情報に溢れていて、それに日々触れるだけで『学んだ』と感じられる」のが現代社会なのだと思う。

この小説の通常の登場人物はとにかく「何も考えていない」。与えられた多量のコンテンツを消費することに夢中になり、言っていることも支離滅裂である。小説の中では睡眠薬中毒になったりとかなり誇張して描かれているが、自分も含めた現代人もこうなってしまっているのではないかと危機感を覚えた。

自分は特に「本物の人」と話すとこれを実感する。特定の分野の表層的な情報は多く持っており詳しくない人には説明できても、その分野に詳しい人と話すと途端に会話が成立しなくなる。だから本物の人とは会話しなくていいように、心の平安を保てるように、表層的な情報で通用する居心地のいいコンフォートゾーンから抜け出したくなくなる。しかしそうなったらもう成長はない。


ではどうすればいいのか。これも小説の登場人物(フェーバー)が教えてくれている。

ひとつめは、最前いったとおり、情報の本質だ。二つめは、それを消化するための時間。そして三つめは、最初の二つの相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由だ。

表層的かつ集計的な情報だけでなく、原理原則やファクトを取りに行き、それを時間をかけて自分の中で消化する。そして得た情報を活かすための行動を起こすようセルフコントロールする。

確かにこれは労力がかかるし辛い。そして現代社会は楽な方、便利な方への誘惑が強い。だが成長を望むなら意識してこれをやらないといけない。自分は自分の頭で考えられているのか、それともただ消化しているだけなのか、常に問わなければならない。


50年以上前の偉人から叱咤激励をいただいた気分である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?