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関ヶ原合戦祭り参陣~中編~

こちらの続きになります。

筆者の初陣の写真(甲冑隊真ん中)

島津の退き口、敵中突破

いよいよ周りを囲まれた島津軍。
義弘は家臣「敵はいずかたが猛勢か」と問います。
家臣は「東寄りの敵、もってのほか猛勢」と応えます。
すかさず義弘は「その猛勢の中に相掛けよ」と命を下します。
勝ちを確信した東軍は衝撃を受けた事でしょう。
一瞬の油断を突かれた瞬間だったと思います。

突き進む先は徳川本陣。そこを掠るように方向転換し、退却していきます。
家康は追撃を本田忠勝、井伊直政、松平忠吉に命じます。
島津軍は彼らの部隊に対し、所謂捨てがまりの戦術をとります。
追いかけてくる敵に後ろ数十人が死ぬまで時間稼ぎをするのです。
家老であった長寿院敦盛も、義弘の陣羽織を羽織り、義弘の身代わりとなって討ち死にします。

いよいよ逃げ切れない、もはやこれまでと考える義弘。
これを諫めたのは甥の豊久。
「義弘が薩摩へ戻ることが、薩摩の勝利である」
そう考えていた背景から、豊久自身が殿を務め、命を落とします。
しかし追撃した井伊直政、松平忠吉は負傷。勝ち戦の最後の最後に追撃の割に合わないダメージを受け、徳川家康はじめ東軍は畏怖し追撃を諦め、後に本領安堵に繋がったと伝えられています。

関ヶ原駅から古戦場へ行く途中の案内

【閑話】天吹(てんぷく)助命器伝説

関ヶ原合戦の折、1人の天吹の名手が参戦していました。
その名手の名は北原掃部助(きたはらかもんのすけ)。
さて、先述した退き口の際北原掃部助は、陣に天吹を忘れたことに気付き、のこのこ陣に戻ってきます。すでに陣跡は東軍の真っ只中。当然捕まり、斬首を言い渡されます。
辞世の句を詠むよう言い渡されるも、北原掃部助はこれを拒否し、今一度天吹を奏じたいと要求します。
そこで奏じた音色を聞いた東軍の将(一説では山口直友と言われる)は、薩摩へ帰してやっても良いのでは、とその場で処することはしなかったそうです。
そこから、その天吹は「助命器」と銘打たれ北原家にて大事に保管されます。
当の北原掃部助ですが、死ぬはずだったのに生き残って薩摩に戻ったことは武士の恥と自決してしまいます。
義弘は北原家が途絶えないよう、手厚く保護したと言います。
ここから後に輩出されるのが安藤照。忠犬ハチ公像や、上野公園の西郷隆盛像を作った人物です。

さて、助命器となった天吹。この行方は何とも悲しい末路。
明治の頃、北原家に嫁いできた奥様に薪にされて亡くなったとのことでした。

天吹を奏する筆者

本日はこれまで。
次回は合戦祭りの様子をお見せしたいと思います。

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