インサイド・バイオレンス

「やめて」

と言うとゲニルがえ?と聞き返した。体はテレビの液晶に向けたまま、首をひねってこちらを見る姿はくだらないヤンキー風情のポージングにも似ていた。不安定にしゃがんで、プレイステーション3のコントローラでビデオサブスクリプションを起動したのがさっき。変わらない体勢で、画面は見えないけれど、きっと再生までもう間もない。

「お願いだからやめて」

「カノコ」

ゲニルが立ち上がった。ソファとテーブルの合間を縫って、すっかり古びたフェイクファーのスリッパをポコポコ言わせて、わたしの目の前まで。

「なに怒ってるの。なにが悪かったの」

わたしはテレビを指さす。画面には等間隔に並んだ映画のポスターが、青を背景に浮遊して、ものすごい速度でスクロールしていた。画面を見やったゲニルはやべ、と画面へ駆けた。ポコポコ。どうやらコントローラのボタンが、手を離したのに押しっぱなしになっていた。

「これが、どうしたの」

「なに観ようとしてたの」

「屋敷女」

知らないタイトル。けれど内容はさっきゲニルが言った。

「やめてほしい。そういうの観ないで。それ妊婦が、酷いことされるやつなんでしょう」

「でも」

ゲニルは笑う。恥ずかしそうな微笑。飛行機が上空を飛び去る控えめな轟音が、窓の外を遠のいていく。

「言ったじゃないか。これはレンタルなんだよ。観放題のやつじゃなくて、別で金払わないといけないの。レンタルの期限が過ぎると、観れなくなっちゃうんだ」

「別に今日じゃなくてもいいんじゃない。べつのひでも、さ」

「レンタル、明日で終わるんだ。ちょっと前にレンタルしたけど観るタイミングがなかったの、言ったじゃない。明日は仕事だし」

わたしは高校の、同じグループにいた同級生を思いだした。特別な理由はなかったけれど彼女が口を開いて、早口に喋るあいだ、わたしは内心不機嫌だった。彼女のターンが到来すると世界まで無価値になる最低の魔法だった。魔法の再来。この男は、わたしの恋人はどうしてわたしが怒っているか、本当に把握していないのか。深く呼吸して口を開かける。と

「なんで怒ってるの」

ゲニルの愚かな先手。

「わたしのお腹には、赤ちゃんがいるの。あんたもエコーでその姿を観た、赤ちゃんがいるの。わたしはこの子が大好きで、あんたもそうだと思ってる。だからそれを、観てほしくないの」

ゲニルが操作して、画面には件の映画のポスターが拡大されていた。文字通り影の落ちた表情の女優がこっちを観ている。どの角度からでも目があうという絵画を思いだす。ゲイルは、きょとんとしていた。わざとか、自然か、首を傾げている。それなりに背が高くて、若いとは言えなくなった年齢相応に肥えた男の小首を傾げたすがたは、たとえ夫でも奇妙だった。

「わかってないの」

「いいや」

ゲニルは続ける。表情も小首もそのまま。

「けれど、それはあくまでフィクションだよ。なにもカノコ本人が虐められるわけではない、と思うけど」

気づかなかった、雨が降っている。物干し竿に干されたゲニルのジーンズが視界の隅で揺らめいた。

「確かにフィクションだよ。フィクションだけれど、それがつまり、わたしを虐めないってことにはならないの。わたしは妊娠した人間が傷つけられるところなんて観たくないの。妊娠している、状態で同類が虐められる映像を、生活空間で再生しないでほしいの」

「けれど、そもそもホラー映画は、カノコの趣味じゃない。それが俺に、輸入されたというか。それを今さら辞めろなんて無理なんだよ」

「ちがうの。今だけ、この状況での再生を辞めてと言ったの。そのフィクションが、わたしの体にどれだけのストレスを与えてくるか、を予測していないあなたが嫌なの」

「金が無駄になるじゃないか」

流産したらそれこそ、とは言わなかった。それを言うと尊厳が、ペルソナが死ぬ気がした。

「だったら他所で観てきてよ。それ、スマホでも再生できるんでしょう」

「でも」

「お願い。お願いだからどっか、他所で観てきて。ここも、あなたの部屋も駄目。わたしたちの空間で、あなたがとんでもないものを観ていると想像するだけで嫌なの」

沈黙の到来。ゲニルは最後まで表情にわだかまりを湛えていた。ゲニルは部屋を出ていった。

Writer of Wide Scence