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思春期をピンク・レディーとともに過ごした

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つい昨日(9/11)気づいたばかりなんですが、いつの間にかピンク・レディーが全曲ストリーミングで聴けるようになっていますねえ。いつから?ちょっと調べてみたら昨年の冬あたりに解禁になっていたようです。知らなかった…。大きく告知してくれたらよかったのに。

でもそれがなかった(気づかなかっただけ?)のは、もういまやピンク・レディーがどうこうっていうような時代じゃないんだということでしょうね。ぼくらの世代がちょうど中高生のころの最大のアイドルがピンク・レディーにほかならず、そう、沢田研二も山口百恵もキャンディーズもいたけれど、ぼくにとってはピンク・レディーでしたねえ。レコード売り上げ数からいっても断然No.1でしたし、露出度からいってもねえ。

だから思春期をピンク・レディーとともに過ごしたと言ってよく、ほ〜んとあのころ、テレビの歌謡番組にどんどん出まくっては歌い踊る二人の姿に夢中になっていたものでした。かわいくて、あのころのぼくにとってはちょっと年上のきれいなお姉さんたちで、セクシーさも感じていたから、思春期のある種の目覚めをミーちゃんとケイちゃんに見出していたような気がします。

いまSpotifyで見ますと、ピンク・レディーは当時わりとアルバムもリリースしていたんですね。ライヴ・アルバムだって三つもあるみたい。このへんは山口百恵にしろだれにしろ、いまの現役アイドルでもたぶん同じなんですけど、どんどん発売されテレビの歌番組で披露されるシングルA面曲(表題曲)のことしか、ぼくも頭になかったですね。45回転のドーナツ盤は買っていましたが、アルバムがあると意識すらしたことなく。

逆に言えば、ピンク・レディーのシングルA面曲はぜんぶいまでも鮮明に憶えていますし、歌えます。踊りはもう忘れたかも。このコンビの活動期は(解散後の復活には興味なかったので除くと)「ペッパー警部」(1976/8)から「OH!」(1981/3)まで。でもその解散前近くのことはもうあまり記憶になくて、ぼくが夢中だったのは78年12月の「カメレオン・アーミー」まででしたね。

実際ピンク・レディーの人気もそのへんを境にガクンと落ちるようになり(「カメレオン・アーミー」が最後のオリコン・チャート1位でした)、世間ではアイドルが人気を保てるのは二年か三年だけと言われていますけど、このコンビも例外ではなかったということです。でも絶頂期の人気はそりゃ〜あもう!ものすごいものだったんですよ。ピンク・レディー現象とまで言われました。

個人的にはデビュー曲だった「ペッパー警部」が大きな衝撃で、当時ぼくは14歳。だから中学生でした。いきなりテレビの歌番組に見知らぬ女性二人組が登場し、曲題が「ペッパー警部」と画面にテロップで出たときは、なんじゃそりゃ?!と驚きました。警部もヘンだと思ったけど、ペッパーがなんのことやらわかりませんでしたからねえ。

いまであればペッパー警部→サージェント・ペパーと連想が働きますから(サージェントは軍曹だけど)、あぁビートルズなんだと、作詞の阿久悠は完璧その世代ですからね、ちょっとはわかるんですけど、当時はただただ不思議で。もっとびっくりしたのはテレビ画面で歌いながら踊るミーとケイのちょっと大胆な振り付けです。こんな格好していいのか?って子ども心に思ったもんです。

その数年前から山本リンダの「どうにもとまらない」とか「狙いうち」とかに釘付けだったわけでしたから、ピンク・レディーの「ペッパー警部」なんかどうってことないだろうと、いまではそう感じます。でも当時はですね、リンダのころぼくはまだ10歳くらいで、ただただおもしろいと思って真似していただけで、要するにまだ「目覚めて」いなかったんですよ。

ピンク・レディーがデビューしたときぼくは14歳になっていましたから、見聴きする側のこっちが思春期に入っていたから、だからテレビで見ているだけでちょっと恥ずかしいと、リンダのほうがもっといやらしく激しかったのにあのころはワケわかっていませんでしたからねえ。

そう、だから上でも触れましたが思春期のある種の目覚めをピンク・レディーに刺激されて、それでちょっと恥ずかしいでもテレビ画面から目を離すことができないっていう、そんなアンビヴァレンスのジュブナイルをぼくは過ごしました。ぼくにとっての思春期=ピンク・レディーを見聴きする体験でした。

第二弾シングル「S・O・S」(1976/11)、第三弾「カルメン ’77」(77/3)と、徐々にぼくのちょっとした恥ずかしさとともにあったある種の抵抗感も薄れ、ひたすら楽しくテレビの歌番組でピンク・レディーを見聴きするようになっていったんですね。

ところで「S・O・S」って、いま聴くと楽曲としてかなり完成度が高いっていうか、いい曲ですよねえ。ピンク・レディーのばあい、あくまでああいった振り付けあってこそ、踊りながら歌うのであってこそ、意味がある楽しさがあるという存在だったんで、レコードやCDや配信で曲だけ聴いてもなぁ…とずっと感じていましたが、今回Spotifyで聴きなおし、なかなかどうして楽しいぞとみなおしました。

阿久悠(作詞)&都倉俊一(作編曲)の曲づくりもどんどん深化していって、四枚目のシングル「渚のシンドバッド」(1977/6)のころにはだれも及ばない高いレベルの歌謡曲を産み出すことに成功していました。この曲はこのコンビが歌ったなかの最高傑作じゃないですか。ピンク・レディーに書いた阿久悠の詞はかなり不思議というか、「渚のシンドバッド」にしたって曲題そのものが妙でしょう、渚にシンドバッドがいるんですよ。

でもそのへんの歌詞の不可思議さ、すっとんきょうなミョウチクリンさ、必ずしも男女の恋愛をテーマにしたものではなかったりした新鮮な題材、「UFO」(1977/12)のように宇宙人に恋をする設定とか、「サウスポー」(78/3)のような<時代>を反映したタイムリーさ、などなど、だれも追いつけない世界を実現していました。「サウスポー」に出てくるバッターは王貞治のことであると全員がわかっていましたけれども、歌詞にしちゃっていいのかよとか、思っていましたよね。

そのあたりの、ちょっと、いや、かなりヘンな阿久悠の歌詞がちょうど思春期のぼくを強くくすぐり刺激したのは間違いありません。都倉俊一の書くメロディとアレンジにしたって、いま聴けば、あぁここはブギ・ウギ・ベースのロックンロールだ、これはディスコ・ポップスだなとか解析できますが、10代のころのぼくの耳にはひたすら新鮮でカッコいいサウンドだったんですから。

阿久と都倉の歌詞と曲に分割整理して語っていますけど、当時はもちろん両者合体で一体化した魅惑として、土居甫のつけた振り付けとあいまって、ちょっぴりエキゾティックで(見慣れないという意味で)ありかつ一種のキワモノ的な快感もあって、非常に強く当時の子どもたちにアピールしてきていたんですよ。そう、ピンク・レディー人気は子どもが支えていました。1978年のオリコン調査によれば、このコンビの支持層は3〜12歳が42.5%だったそうです。女性アイドルなのに女性ファンのほうが多かったのも特徴です。

とにかくレコードが売れに売れて(売れる=正義という世界)、「渚のシンドバッド」で初のミリオン・セラーを記録して以来100万枚突破が常態化し、テレビ番組に出まくってはあんな感じで踊り歌って、しかしピンク・レディーは健全で明るくポップな感じだったのでお茶の間にも違和感なく受け入れられて、当時このコンビを知らない日本人はいなかったのでは?と思うほどでしたねえ。

流行歌はあくまで<時代の>ものでしかないんで、過ぎてしまえば忘れられる運命。いまやピンク・レディーの一連のメガ・ヒット・ナンバーも懐メロとなってしまったかもしれません。大学生のころからぼくはジャズにハマるようになると同時に日本のヒット歌謡の世界からは遠ざかり、意識して蔑視してしまっていたような気がします。

長い時間が経過して、2017年の初春ごろからわさみんこと岩佐美咲のことが好きになり、するとわさみんは(ファン層がオジサン中心だからでしょうけど)コンサートで往年のヒット曲、つまりピンク・レディーなんかをよく歌うし、DVDにも収録されているんですね。ぼくの記憶しているかぎりでは、わさみんはいままでに二曲、2018年のソロ・コンサートで「UFO」と「ペッパー警部」を歌いました。これからもまた聴きたいな〜。

(written 2020.9.14)


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