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ぼくは人生の落伍者 〜 1999年のあのできごと

(8 min read)

もう20年以上も前のことですけど、それでもなかなかいままでは語る気になれなかった1999年のあのできごと。相手のあることでもあるし、その人生に深く踏み込むことになってしまうし、ということもありました。

しかし語らなかった最大の理由は、やはりぼく自身が(自分の傷をえぐることになるから)その気になれなかったということです。でもいま、年月が経過して、正直にあのときのこと、前後のことなど、書いておきたいと思うようになりました。いま、語っておくことが必要かもしれません。過去から抜け出し、一歩進むために。

1991年に結婚し、95年に新築マンションを購入して引っ越したんですが、99年の初春、パートナーに悪性リンパ腫、つまりガンが見つかりました。ある日、パートナーが「どうもこのへんにしこりがあるような感じなのが気になる」と言い出して、念のため病院で検査を受けることになり、それで発見されたのです。

行ったのは三鷹市の杏林大学病院。自転車で行ってもわずか10分程度というところに住んでいました。悪性リンパ腫が見つかって、パートナーは(表面上は)平静を装っていましたが、死の危機に直面するということになったわけですから、なんの自覚症状もなかったとはいえ、本心では大きなショックだったはずです。

しかしこんなことは、いまふりかえって考えるからそうだったんだろうとわかることであって、当時のぼくはなにひとつ理解できていませんでした。病気のことも、パートナーの気持ちも、なにひとつとして。知ろうともしなかったんです。だから、重大な病気にかかったパートナーに優しく接しなかったと思います。ぼくはそれまでとちっとも変わらない態度のままでした。

だから、それまでどおり、ときにはわがままで自分勝手にふるまったりすることもあったりして。パートナーは担当医師の意見で手術はせず、投薬治療と放射線照射だけでガンを消すということになったのですが、やはり投薬の期間は入院していました。終わると退院。それを数ヶ月間にわたりなんどもくりかえしていたのです。

そのあいだ、ぼくはなにもしなかったわけじゃありませんが、下着の替えを持参したりなどパートナーにこれとこれをお願いねと言われたことしかやらず、それでも入院時にはちょくちょく様子を見に行っていましたが、ほとんどパートナーへの気遣いを見せなかったと思います。実際、気遣う気持ちもなかったのでしょう。悪性リンパ腫なのに。

抗がん剤の投薬でパートナーの髪は抜け落ち坊主になり、放射線照射でその部位の肌は真っ黒になってしまっていたというのに。

あぁ、そう、ぼくはそういう人間なんです。たとえ人生をともに歩んでいるパートナーに対してすら、その相手が死ぬかもしれない深刻な病気で入退院をくりかえしているというときですら、自分のことしか頭にない、他人のことはどうでもいい、関係ない、という人間なんですよ。

端的に言って「ひとでなし」、それがぼくです。

パートナーは1999年初春以後、入退院をくりかえしながらの治療を続け、それが最終的に終了した八月、ぼくのいる自宅へと戻ってきたその足でそのまま家を出て行ってしまったのでした。当然ですよね。

しかし、ぼくにはなぜかこれがたいへん大きなショックでした。そりゃあもう、人生最大の、2021年現在59年間の全人生をふりかえってみても、あのときのことは人生でいちばんツラく悲しいできごとだったと思います。あのとき玄関ドアを出ていくパートナーの後ろ姿は、いまでも忘れません。

この1999年8月のショックが、ぼくの人生をすっかり狂わせることとなったのです。メンタル的にやっていけなくなって、それまで通っていた心療内科では手に負えなくなったので、クリニックを変えました。あたらしい薬が出るようになって、さらに夜寝られなくなったので、眠剤も処方されるようになりました。

関連してさらに問題だったのは、仕事に行けなくなったことです。前からうつ気味だったぼくのその症状が深刻なものとなり、家から出ることもかなわなくなったんです。とにかくですね、うつがひどいと、顔も洗えない、歯も磨けない、髭も剃れないし、お風呂に入ることも、ごはんを食べることすら、しんどいんです。

だから、ただでさえ、健康なみなさんでさえ仕事には行きたくないと思ったりするものみたいですけど、うつ病が深刻になったぼくはどんどん欠勤するようになりました。大学の教師でしたから、研究室に電話をかけたり、ある時期以後はネットの手続きで、休講の連絡をしては、一日家で寝ている、寝ないまでも休んでいるという日が多くなりました。

あまりに休講が多いので、しばらくしてさすがに大学の同僚に見とがめられるようになり、くわしいことを書くのはメンドくさいし、いまでもつらいし、細部は忘れてしまったので省略しますが、約10年が経過して最終的に退職せざるをえないハメになりました。

もともと、こども時分から本を読んで研究して論文書いたりなどは大好きでどんどんやっていましたけど、大学へ出向いての授業や学内会議などには消極的な性分ではありました。それがうつ病の悪化でなにもできなくなってしまったんですから。

かたちとしては依願退職でしたから退職金をもらったんですけど、事実上はクビでした。そこからぼくの人生は転落の一途をたどるようになり、退職金を切りくずしながらニ年生活するも長続きせず、東京のマンションでは生活できなくなって、故郷の実家を頼って愛媛にもどってきたわけです。

おおもとをたどるとですね、大学退職で人生が一変したその原因は1999年8月のパートナーとの離別にあり、その原因はというと悪性リンパ腫という深刻な病気の際に相手を人間扱いしなかったからで、そんなヤツであるぼく自身にもとはといえば原因があります。そのもとのもとをたぐってみると、生まれつきの脳の障害なのですけれども。

どうしてそんな人間に生まれついてしまったのかは、自分ではわかりません。アスペルガー(自閉症スペクトラム障害)で他人との関係がとれないという、他人の気持ちがいっさいわからないという、これは生まれつきの脳の障害なんですが、そういうふうに生まれついてしまったからだとしか言いようがありません。

とにかく、ぼくは人生の落伍者なんです。そのことだけは間違いありません。

その原因もぼくにあり、生まれついての脳の障害だからどうしようもないことだとはいえ、もうちょっとやりようがなかったのかと後悔しきり。もしも、あのとき、1999年の初春、パートナーに悪性リンパ腫がみつからなかったら、いまでもぼくは東京で結婚生活を維持して大学教師を続けながら、楽しく生きていたかもしれません。いや、遅かれ早かれ同じ結果になっていたかもですが。

2011年3月末の年度終わりで愛媛に戻ってきてからもいろいろあるんですが、直近10年のことはまだ語る気になれません。

あ、そうそう、肝心なこと。離別したパートナーの悪性リンパ腫はその後現在にいたるまで再発も転移もしておらず、寛解しました。いまでもどこかで元気に暮らしているはずです。

(written 2021.6.30)

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