「ゴッドタン」、愛。

テレビ東京系「ゴッドタン」。放送開始から10年以上になる人気深夜番組だ。

まず昨今のバラエティ番組でここまで芸人に愛のある番組はないと思う。もちろん他の番組に愛がないと言っているわけではなく「ゴッドタン」の場合は異常に愛があるのだ。芸人への愛だけでできていると言っても過言ではなく、また芸人側もその愛に応えようとしているから作る側と出る側が共闘関係にあって「やらせる」「やらされる」といった類の予定調和がまったくない。

「キス我慢選手権」「ストイック暗記王」「マジ歌選手権」「マジ嫌い1/5」など人気企画が山のようにあり、おぎやはぎや劇団ひとりなどのレギュラー陣以外にも、フットボールアワー後藤やロバート秋山、オードリー若林、東京03などの人気芸人たちの「本当に面白い部分」にかなり早く焦点を当てていたという意味で出演者もいつも粒揃いである。

しかしてこんなことを書き進めながら私はDVDを全て持っているただのファンだが、見るたびにこのハズレのなさは何だろうと思うのである。

数ある企画の中で「ゴッドタン」感のあるものとして「バカヤロウ徒競走」という企画がある。テーマとしては「人はバカヤロウと叫びながら走ると早く走れるのか」を検証する企画である。すでにバカバカしいが、怒らせるための工夫がさらにバカバカしい。

実力確かな役者たちがクラウチングスタートの姿勢をとる芸人の目の前で寸劇をはじめるのだ。
例えば、番組のキャスティング会議で自分が嫌々キャスティングされていたり、将来相方に嫌われていて自分の娘が涙ながらに間を取り持っていたり、お気に入りのお店の女の子から実は出入り禁止にされていたり。その寸劇を見て芸人たちは「バカヤロウ」と叫び走り出すのだ。

そして実際徒競走のタイムは短縮されている、のはご愛嬌だが、やはりなんとも面白いのである。カタルシスがあるのである。企画の発想自体すごいが、しかし、この企画もさじ加減を間違えると後味が悪くなるリスクがあると思う。

日本のバラエティ番組は今後も「コンプライアンス」に対してより緻密な魅力で戦わなければならない宿命にある。
先日久しぶりに「タモリのボキャブラ天国」(素人投稿時代)を動画サイトで見たが、2016年の「感覚」で見ると半分くらいのネタが完全にアウトなのである(ここに内容が書けないほど)。

テレビが誰に教わるわけでもない視聴者の「感覚」(それをコンプライアンスと呼ぶのだと思うけれど)を相手にせざるを得ない以上、これからは先ほど書いたようにより緻密な魅力、言い換えるとより小さくても深いとこに届く魅力で戦うことが求められる。つまり破壊力だけに頼れなくなるということだ(近い将来、芸人が自らであっても見た目で笑いをとることに自然と抵抗が出てくると思う)。

その中にあって前述の「バカヤロウ徒競走」である。この企画も基本は人の弱い部分をいじっている。だから破壊力がある。しかし当のいじられた人を主役にしてその反骨心を真ん中に置くことで、「コンプライアンス」に反応しそうな読後感を救っているのだ。
肝心の「バカヤロウ」と叫んで走る尺は短く、笑いのクオリティの勝負所は寸劇の内容と寸劇を見ている芸人の複雑な表情にあるのだけれど、それで終わる(つまりいじって終わる)のとそうでないのとでは読後感が全く違う(このさじ加減が相当難しいと思うけれど)。

要は「ゴッドタン」という番組の立ち位置が、実は「いじる側」ではなく「いじられる側」にあると無意識に分かる。「バカヤロウ徒競走」はそのことが分かりやすい企画だが、その他の企画にも一貫してこの手のツライ側(モテないとか、疑心暗鬼とか、嫉妬とかそーいう感情の側)につくという立ち位置の優しさを感じるのである。それは冒頭で述べた出演者への愛にも通じる。

昔、相対性理論が「テレ東」という曲でこんなことを歌っていた。「水曜の退屈を いかしたテレビが満たしてく」。この曲が発表された当時「ゴッドタン」は水曜放送だったことから私にとっては確かな結びつきなのだが、続くサビでのリフレインがまさに上記でダラダラと書いた、ツライ側に立つ「ゴッドタン」がバカな顔して叫んでいることで、悪ふざけを通して見ている側の深いとこに「なんとなく」届いていることだと思える。

伝えたい言葉は I LOVE YOU / 口をついてでる I WANT YOU / 愛の言葉は I LOVE YOU / 君に届けたい I NEED YOU

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