育つのは、俺だった。「飽きない変顔」
娘(三歳半)は同じことで笑う。
「もっかいやって」
俺のつまらない変顔や、リアクションで大笑いする。
何度も何度もやっている方がいい加減恥ずかしくなるくらいやらされる。
娘は何度やっても笑う。
ひーひー笑って咳込むくらい笑うときもある。
「パパおもしろいねえ」
いや、俺という人間はそんなに面白い人間ではない。
「おもしろいからパパすきだよ。ひーひー」
君にとって面白いならそれでいいが、
「飽きないの? 」
「あきないってなによ」
娘はまだ「飽きる」という言葉を知らない。俺は言い換えて説明をしようとした。
「パパの変なお顔、何回も見てるでしょ。何回も見てると面白くなくなるでしょ」
「ううん、おもしろいよ」
「じゃ、飽きてないんだね」
「じゃ、あきてない。やったー」
俺は娘の「あきてない。やったー。」という言葉を聞いて、感動してしまった。「飽きていない」という状態と「やったー」という喜びはふつうあまり結びつかない。矛盾はしていないが、そういう言い方はあまりしない。
でも、何かに対して飽きていないという状態は実はとても喜ばしいことなのではないか。
勉強も、スポーツも、仕事も、趣味も、遊びも、恋愛だって、そのほかいろいろある俺たちがやることのすべては飽きとの闘いだ。もし、それらのなんでもいい、飽きていないのならば、それは本当に幸せなことなのだ。そしてそんな「あきてない。やったー」と言えることを見つけることが大切なのだ。
今のところ、娘にとってそれは世界中がつまらないと言っても、俺の変顔なのだ。じゃ、俺にとっては何なんだろう。
育つのは、俺だった。
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