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新聞の未来 (1) 市民が為政者を監視する時代に (1998年発表) 

新聞は今後どうなるのかーー。
1998-99年に勤め先の職場で回覧していた『新聞の未来』です。月1のペースで10回、書きました。記事は当時のままです(オリジナルは縦書き)。


▼誰でも情報発信者になれる時代に (1998.6)

 十五世紀中ばのグーテンベルクの活版印刷技術の発明は、僧りょたちの書物の独占支配を打ち破った。
 
それまで数百年に渡り、彼らは写本を筆写することで、教義と権威を守り続けた。盗み出されることを恐れて、鎖で本を書棚に結びつけたという記録もある。 
 
ローマ教皇の免罪符の販売に抗議して宗教改革の端を開いたドイツの修道ルターは、印刷機の力を知っていた。
有名な「九十五条の抗議書」は、二週間でドイツ全土に、一カ月で欧州全土に知れ渡った。一五一七年のことだ。 
 
米国シティバンクのW・リストン元会長は、パソコンと通信技術の融合がもたらした現在の技術革新をグーテンベルクの発明になぞらえる。「どんな方法でも阻止できない自由というウイルスが電子ネットワークによって世界の隅々にまで広まっている」(フォーリン・アフェアーズ誌、九七年九十月号)。
 
インターネットが当たり前の世の中になれば、従来の社会構造やビジネスモデルが根底から変わる。かつて独裁者はすべての市民を監視しようとしたが、ネットワークで結び付いた社会は、 市民が為政者を厳しく監視すると話す。 
 
典型例を金融市場と国家元首の関係に見る。
 
リストン氏は言う。「市場は巨大な投票機だ。国の外交、財政、金融政策に対する世界の金融トレーダーの評価をリアルタイムで記録する。ホワイトハウスのローズガーデンで大統領が政策について話せば、その政策への市場の判断がすぐドル相場に反映される」
 
先月、インドネシアのスハルト大統領を辞任に追い込んだ学生や市民の運動で、インターネットが果たした役割は大きかった。
 
多数の島々からなる広大なインドネシアで、デモ行進など同時行動を呼び掛けるために、学生たちは電子メールを活用した。また、インターネットを通じ、自分たちの民主化運動の正当性を、国内の報道機関をバイパスして国際世論に訴えた。 
 
誰でもどこでも簡単に情報の発信者になれる時代に、記者や編集者、取材・通信網、インクや用紙、輪転機、トラック輸送、配送所、倉庫、それぞれに関わるマンパワーなど大がかりな装置を必要とする新聞はいかなる変貌を遂げて行くのだろうか。
 
現在の新聞社や通信社は、中世にローマ法王庁がたどった道から何を学べるだろうか。
 
劇的に進歩する情報技術の動向を知るたびにこのことが気になる。 
(了)
 

▼紙かオンラインか、読者の関心は? (1998.7)

米国では約百年前まで、馬を飼っている家は珍しくなかった。馬を持つことに、手間もお金も大してかからず、老若男女誰でも、ちょっとした用足しに馬に乗り、遠出をする場合は馬車を使った。馬の飼育は、家の修理や炊事と同様に重要な家事であり、家族の誰もが馬の面倒をみた。 
 
自動車が町に現れた最初の数年間は、この大げさな乗り物が将来、馬の役割を奪うとはとうてい想像できなかった。
 
実際、当時の車はお世辞にも実用的とは言えない。舗装道路は整っておらず、燃料も簡単に手に入らない。振動は激しく、走り出しても故障するのが当たり前。百メートル先からでも分かるぐらい、騒音もひどかった。
 
操作も難しく「自動車の数は運転手の数を上回ることはない」とまで言われた。 
 
しかし、自動車産業が芽生え、操作が簡単で安価な車が量産されると、車は驚くべき早さで馬に取って代わった。その後、馬が消えたわけではない。しかし、用途は限定され、馬を持つことは今や、金と手間がかかることを意味するようになった。 
 
ボストンに本拠を置く有力紙「クリスチャン・サイエンス・モニター」のオンライン版総責任者のトム・レーガンさんは、新聞の未来について「紙か、オンラインか」の議論に出くわすたびに、馬と自動車の役割交代の歴史を思い出すという。
 
「パソコンの値段がテレビ並みに下がり、通信環境が今より快適になれば、ニュースを読むのに、紙の新聞を取る必要がなくなる。オンラインで速報と詳報がどこでも簡単に手に入るのに、紙にこだわる必要があるだろうか」 
 
紙の新聞に将来がない、とレーガンさんは言っているのではない。「事件、事故などのリアルタイムの報道はテレビやインターネットなど電気的なメディアに任せながら、紙の新聞は解説や論評に重点を移すだろう」。
 
このため、必ずしも「紙の新聞」が日刊である必要はなく発行頻度は減ると予測する。
 
「いずれにせよ、新聞が今の形のままで、ずっと存続するとは考えにくい。こう言うと必ず、オンライン新聞がふろやトイレで読めるか、と反論される。確かに今のところ、パソコンはふろに持ち込めない。しかし、先のことは誰にも分からない。それよりも問題は、紙のメディアとデジタル・メディアとでは、一般読者は、どちらの未来により強い関心を持っているかということなのだ」
(了)

▼読者が私の意見を磨く (1998.9)

サンフランシスコで発信されるウエブサイト「ホットワイアード」の人気コラムニストのジョン・カッツさんは、新聞という印刷メディアに手厳しい。「新聞は、どこかピントがずれており、受け身で退屈。しかも尊大。ニュアンスに富んだニュースを読者に届けようとする情熱がない」(同サイトのコラムから) 
 
名だたる新聞社が流行のように、インターネット上でニュースサービスを流していることにも、カッツさんは懐疑的だ。
 
「新聞社は本当にデジタル版を作る必要があるかどうか、きちんと考えるべきだ。紙の新聞でやっていることをオンラインに置き換えるだけなら、その分の投資をすぐれた記者の採用に充てる方がどれだけましか」 
 
カッツさんには世界各地に何万という読者がおり、自分のコラムへの反響として一日に五十から百通の電子メルを受け取る。そして、そのほとんどに対して返事を書く。物議を醸す発言をすれば、この数字は一挙に数倍に膨れ上がる。
 
そして、この読者とのやり取りが自分の仕事の中核であると公言する。 
 
ネット上では書いたものは、何年も蓄積され、人から人へ転送される。 書きっ放しは許されない。紙の新聞の記者のように「取材しました、書きました、はい終わり」ができないと説く。
 
「ネット上でコラムを書くということは、物事の終わりではなく、始まりなのだ。無数の読者にさらされ、自分の意見が余儀なく修正される。まるでマンハッタン中をトラックに引きずり回されているようだ」 
 
新聞の未来がデジタル化を射程に置いた活動であるならば、カッツさんが言うように、双方向性つまり「読者と記者との対話」「消費者と新聞社の相互関係」が今以上に重要になるだろう。
 
デジタル・メディアの最大の特徴は、双方向性だからだ。 
 
カッツさんは言う。「読者の意見によって私の見解が絶え間なく磨かれて行く。私は伝統的な識者然としたコラムニストに比べ、読者に対し影響力はないかもしれない。しかし、私の読者は、絶えず能動的に意見交換する用意があるという点で、伝統的なコラムの愛読者よりも力があるだろう」 
 
新聞の発行部数の低迷が問題視されると決まって「読まれる記事とは何か」「記者はもっと読者との対話を」が叫ばれる。
 
本気でそれを実践するにはかなりの覚悟が必要だ。
(了) 


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