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形骸化

昼に起きて、3時間から5時間ほどぼおっとスマホを眺め、やっとご飯を食べたらまた眠り、スマホをいじって朝を越すというような毎日を春休み中は過ごしてきました。

人間っていうのはよくできていて生活習慣が崩れると次第にメンタルもやられていくもので。普段は何も気にならなかった部屋の汚さも、部屋の配管に水が流れる音も、心の無い言葉も崩れたメンタルに追い打ちをかけるのには取っておきのスパイスになりました。

形骸化したみたいな言葉はよく聞きますけど、今の自分の状態は形骸化したと言っても遜色ない気がします。
今の自分は人間の形をしているだけで本来の機能や役割を失っているも同然です。
でも実際人間って割と最初からそんなもんなのかもしれないとも言い訳的に思い始めて。
所詮人間は空っぽでそれに耐えきれないもの達が価値や役割や力を無理やり詰め込んだ結果エゴに塗れた汚い大人が出来るんじゃないかと。
あくまで心情的な話になるとそれはあまり論理としてまともじゃないかもしれないですね。

では、具体的話に変えます。
人間はどこまで行くと人間としての役割を付与されるのでしょうか。
例えばの話ですけど胃の機能が全く機能しない人がいたとします。その人はある意味体の一部がない。空っぽの空間がある。その人は形骸化した人間なんでしょうか?それともその空間的部分だけ形骸化してるんでしょうか?それとも人間の価値はその一部がないからって形骸化してる訳じゃないとでも言うんでしょうか?
もっと極端な話をすれば、脳死判定されて臓器移植をした死体は人間じゃないんでしょうか。
ある意味で1番人間として中身がなく空っぽです。確かに死んでいるという時点で中身(魂)がなく空っぽと言われればそれまでですがあくまで質量的な話をするとしたら。人間としてもっとも形骸化してるんじゃないでしょうか。

ここまで来ると私は思うんですね。人間的生活が形骸化した僕は質量的な形骸化した人間と大差がないんじゃないか。つまりは死んでいるんじゃないかと。

よく社会的死とか聞きますけどあれは形骸化した人間の総括だったんだなって思いました。

空っぽな人間が増えてるから生きる死体が増えている。
そう考えると現代の人間ってゾンビとあまり変わらないですよね笑
ただ増殖するだけの生命体。
欲に忠実な気持ち悪いものでしかない。

まぁ空っぽな形骸化した人間にはお似合いの末路かもしれないですね。



と真昼に考えている空っぽな人間による戯言でした。

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