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つれづれ日記20 怒れるマイノリティの憂鬱

マンション1階の生垣に椿の花が咲いた。
連日気持ちのいい快晴の日が続いて、例年ならまさにお出かけ日和、心晴々のはずなのだが、東京の感染者はついに500人を超え、菅政権の誕生から2ヶ月が過ぎて、私の憂鬱はピークに達している。憂鬱の原因の最たるものは、政治状況の

サイレントマジョリティは、どこに行ったの?

なんとなく、自分はサイレントマジョリティの一員なのだと思っていた。
そしてその言葉を、むしろ肯定的なイメージで使っていた。
ついこの間までは。

先日、ネットでその言葉の語源を調べて、最初はニクソン大統領がベトナム戦争に対する国民の支持を求める演説で使った言葉だと知って、いきなりその言葉のイメージが変わってしまった。
演説があった1969年といえば私が大学を卒業した年。米政府が押し進めるベトナム戦争に反対する運動が、日本でも活発に繰り広げられていた頃である。
ニクソンは、その前年に泥沼化するベトナム戦争の早期解決を掲げて大統領になったものの、一向に治まらない反戦運動に危機感を抱いて、
「そういった運動や声高な発言をしない大多数のアメリカ国民の大多数は、ベトナム戦争に決して反対していない」と言ったというのである。

もうひとつ、遡って1960年に安保条約反対運動が活発だったとき、岸信介総理が「連日国会を取り巻くデモ隊の数よりも、もっと多数の『声なき声』の人びとが日米安保条約の締結に賛成している」と言ったのだそうだ。
その岸首相の発言を逆手にとって30歳だった画家で児童文学作家の小林トミさんを中心に、市民たちが「声なき声の会」を立ち上げ、小林さんはその時はじめて街頭デモに参加したのだという。その「声なき声の会」の運動は、70年経った今でも続いているので、自分もサイレントマジョリティの一人という私の感覚は、ニクソンや岸の言葉よりも小林さんらの運動に近いイメージがあって感情移入していたのだろう。

ところが、その時代から半世紀以上が過ぎて、今の日本でのサイレントマジョリティという言葉は、あの頃とまったく違った新しい意味を持つようになったのではないか、と思っている。
岸の安保闘争の時代も、ニクソンのベトナム戦争反対運動の時代も、あの頃はまだ横暴な政治家の発言に対して、人びとが「声なき声」を上げる機運が世界じゅうにあった。ところが最近の、特に日本のサイレントマジョリティは「無言」どころか政治問題にはまったくの「無関心」と「無気力」な人びとが最多数派になってしまった。かつては、マジョリティがそれぞれの心の中に持っていた政治や権力に対する「声なき声」が、為政者たちの行動や意識に、何らかのブレーキをかける役を果たしてい。が、今ではサイレントマジョリティが全く機能しなくなってしまった。そのことに深い無力感をおぼえてしまう。

怒れるマイノリティの憂鬱

ネット社会のいま、SNSには政府を批判する市民たちの声は溢れている。Facebookには政権に抗議する人びとの間で沢山のグループが作られていて、見知らぬ人同士が情報を伝え合いながら、文字で声を上げている。そして私も、一人でも多くの人に気づいて貰いたいと、憲法映画を作ったりSNSで意見を述べるようにしてきたつもりだった。サイレントマジョリティがいつか機能するものと信じて。

でも、そんなものは幻想に過ぎなかったのかもしれない。
ときどき私自身がFBグループで交わされる「強い言葉」の氾濫に、辟易としているからだ。少なくとも権力監視については自分の仲間である人びとの言葉に、どうして「これでは若い人は引くだろうな」と思ってしまうのだろう。
安倍から菅へと引き継がれた自民党政権に対する危機感は、まったく広がっていく気配を見せず、私たちのような者はいつまで経っても「怒れるマイノリティ」のまま。そして社会に漂う分断と対立の空気はますます深刻なものになっていく。
いっぽう国会でも、野党が政府の悪政を追及すればするほど、マジョリティの目には「批判だけしている人たち」と映り、心が離れていくばかりで、いっこうに支持率が上がる気配がない。
私たちのような「怒れるマイノリティ」も「国会の野党議員」も、相当に頑張っているつもりだが、どれだけ頑張っても支持を得られないのは、何か伝え方が間違っているのではないか。そこのところをもっと真剣に考えるべきではないかと、毎日考えているが、なかなか名案が浮かびそうにない。

学術会議の任命拒否問題に象徴される、菅政権のヤバさ

就任早々「政権の言うことを聞かない官僚は職を外す」と明言したり、政権に批判的な研究者や安保法制に反対した6名の学者を学術会議の任命から外して、理由も明らかにせず、先夜はNHKのニュース番組の出演中、質問が気に入らなかったのか、机を叩いて怒りをあわらにするなど、新総理がどれだけ私たちの国のリーダーとして問題の多い人物かを、わかっている人はまだまだ少ない。そして学術会議のこの問題を許してしまえば、いずれその災禍が自分の身に及ぶことになるなどとは
露ほども思っていない。

一週間ほど前の毎日新聞の世論調査では「学術会議に対する総理の人事介入を、問題だと思っているか?」という質問に、たしか「問題だ」と答えた人が30%代だったのに対して「問題はない」と答えた人は40%をはるかに超えていた。
その事実はつまり、政府による情報操作がうまくいっているからだ。
任命拒否問題が起きると自民党が素早く「高い税金を使って運営される学術会議のあり方がこのままでいいのか、議論し合ういい機会だ」と論点をすり替えると、「公務員の人事に首相が口を出すのは当然のことだ」とか「学術会議のインテリエリートたちは10億円も使って、権威にあぐらをかいている」など、自民党の情報操作はことごとく成功し、国民には間違った情報が浸透していく。
学術会議のメンバーが「無給で、会議に出席した時だけ2万円弱の日当が出るのみ」というような、正しい情報はまったく伝わっていかない代わりに「秋田の田舎から集団就職で出てきた『叩き上げ』だから、人間として信用できる」といったイメージ戦略にはまんまと騙される。そして、学術会議の任命拒否を「問題だと思わない」も、菅政権の支持率も、若い世代の支持率が高いのだ。

そうした世代間の意識の差について、原因や理由を挙げればキリがないほどで、①教育の問題、②マスコミの報道の問題、③政治に関心を持つ余裕がない程に人びとは追いつめられている、④長く「お上の言うことをきいてきた」国民性の問題……等々、どれも語り尽くされてきたことである。
そんな社会の空気、マジョリティのメンタリティは、一朝一夕に変わるものではない。

選挙の数よりも大事なこと

考えてみれば、戦後いまの憲法が誕生して以来、その「押しつけ憲法」を変えるためにと誕生した自由民主党はこの70数年、確実にこつこつと、地域社会に根ざした運動を重ねてきた。そして自民党は長く権力側の役割を担ってきたので、もともと政治のことなど深く考えることのない若い人たちは、「寄らば大樹の陰」を消極的に選択しているに過ぎないのだろう。政府のやり方に異を唱える学術会議のメンバーが外されるなら、「自分は外されない側にいるほうが安全だ」と思っている。
そして、マジョリティのそうしたメンタリティを長い時間をかけて育ててきた自民党は、それを知っているのでますます横暴になっていく。知性を拒否し、大衆の考える力を奪うのに成功すれば、自分たちの手にした権力はこれからも安泰だ。

そういう揺るぎない権力に対して、「批判」という武器を持つためには、相当そのことについて勉強していなければならない。が、若い人たちは批判するほど政治のことなど真剣に考えたことがないので「批判する人びと」を「上から目線」と嫌うことで自分の今を守っている。
国会で政府を追及する野党も、SNSで菅のひどさを批判する私たちも、いま必要なのな批判だけでない、自民党に変わる新しい国家像、新しいビジョンを、辛抱強く伝えることではないか。
今の野党の動きを見ていると「選挙でいかに勝つか」のために永田町の論理で離合集散をしているだけで、たとえば立憲民主党の掲げる魅力的で説得力のある国家ビジョンが見えてこない。自民党政権の問題点は薄々ながらわかっている若い人たちに、「自分たちはこんな国をつくる」というビジョンやメッセージが伝わってこないのだ。
選挙に勝たなければ自民党政権を終わらせることはできないが、数を集めようとするだけで選挙に勝てるとはどうしても思えない。
先日、社民党があのような形で犠牲になったのを見るのは、ほんとうに辛かった。
社会党の時代から、長い間、弱者たちのための政党だった社民党の人びとが、立憲民主党に合流するしかないとの選択をしたのも、それこそ「選挙のため」という動機が見えすいてしまうので、そこに希望を持つことなどできない。
立憲民主党は、自分たちが弱い地方で、コツコツと地域に根差して活動をしてきた社民党を吸収したところで、それが永田町の数を増やすことになるのだろうか。
すべては「二大政党制」という選挙制度の問題なのだけど、数より前に私たちが知りたいのは、自民党に代わる制作であり、ビジョンである。
野党共闘を応援したいの気持ちは山々なのに、また離合集散を繰り返すだけではないかとの不信と不安が、どうしても拭えないのである。

せめて憲法審査会での議論を見せて

たとえば憲法に関して、立憲民主党が共産党や旧社民党の人びとと同じ考え方をもっているかさえ、私たちには本当のところが伝わってこない。
たとえば9条に関して、立憲民主党と共産党は同じ考えなのだろうか?
もしそこが一致しないなら、野党間の違いを議論しあい、選挙で野党共闘を目指すなら、その違いをどう乗り越えて自民党とどう戦うのかが明確にならなければ、この先野党共闘が成功することはないだろう。
憲法に関しては安倍政権のおかげで、国民の間ではある程度の議論を重ねてきたと思うし、他の政策には大きな違いはないと思っている。若い人たちの支持が上がらないのも、護憲と改憲という二者択一では済まされないだろうという現実を直観的にわかっているからだ。変えた方がいい筈の条項も、9条を守るためにとの大義名分のもとで、議論さえできずにいる今の状況はどう考えてもおかしい。
また、特に9条に関して、野党はずっと曖昧なままごかまし逃げてきたのではないか。それで野党共闘をして、本当にうまくいくのか?ぜひ野党間で憲法のどこを守り、どこを変えるのか?そこを野党間でよく議論して、最低限の一致を見たら、国会の憲法審査会の場で堂々と自民党との議論に臨んで欲しい。
選挙の候補者を揃えることや、野党間で候補者調整をすることだけで野党共闘をすれば勝てるとはどうしても思えない。選挙の数よりも、本来の政策で私たちにもわかりやすい野党共闘の姿を示して欲しい。

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