見出し画像

思い出エッセイ01 H2との50年

地下鉄・東西線が開通したのは昭和39年。オリンピックの開催で東京の街が大きく変貌をとげているさなかのことだった。
翌年の春、私は念願だった早稲田大学の演劇科に合格して、毎朝、門前仲町駅から真新しい銀色の電車に乗って、わずか20分足らずで早稲田駅に着くようになった。その便利さを、まるで自分の入学を祝って貰っているかのように感じる、傲慢で手前勝手な娘だった頃だ。

地下鉄を降りて階段を上がると、目の前に「馬場下」の信号がある。
その交差点角の蕎麦屋の前を通って右手の道を行くと大学の正門があり、大隈重信の銅像を中心に法学部や政治経済学部、教育学部など「本部」と呼ばれた校舎群が並んでいた。そんなキャンパスの風景は半世紀以上が過ぎた今も、何ひとつ変わっていない。
反対に、馬場下交差点を左に進むと、真新しい文学部の校舎があり、門を入る手前にフェニックスという小さな喫茶店があった。
登校時、文学部の学生たちは列をなして、校門から続く緩やかスロープを上がり、記念会堂の前を通ってそれぞれの教室に向かう。

「そこの眠そうなマドモアゼル」

私は早稲田駅に着くと、そんな登校の学生たちと離れて、一人、蕎麦屋と対角の角にある穴八幡神社の階段を上がっていくのが日課だった。
穴八幡神社は、父とよく「一陽来福」のお札をいただきに来た、子供の頃からの馴染みの場所だ。
階段を上がって神社の奥に歩いていくと人気のない草っ原があって、欅の木の下のベンチに荷物を置くと、身体訓練と発声練習をして、毎朝1時間ほど汗を流した。
あの頃は、仰向けにした胸と腹をブリッジ状に反って、両足のくるぶしを掴み、頭が地面に着くほど体が柔らかだったのだ。あれから55年が過ぎた今、時の隔たりを何より感じるのは、他でもない肉体の衰えである。
早稲田には「劇研」「仲間」「こだま」などいくつもの学生劇団があったが、そんな有名劇団には目もくれず、演劇科の仲間たちとつくった「創芸」というマイナーな劇団が、授業を受ける教室よりもはるかに大事な、私の居場所だった。
「大学を出たら舞台女優になりたい」などと思っていたわけではなかったが、覚えたてのスタニフフラフスキー・システムの身体訓練に連日いそしむ、典型的な演劇少女だった。

たった一人の身体訓練を、授業が始まるギリギリの時間までやって、汗を拭き拭き教室に駆け込んでは、最後列の席に身を隠すように座る。
それから90分、机に寄りかかって講義を聞くうち舟を漕いでは、隣の席から肘を突かれて目を覚ますと、
「そこの、眠そうなマドモアゼル。今の頁を読んでみなさい」と強面の教授に指されて、大慌てで立ち上がっては、目をシロクロさせて立ち尽くす。
今ではフランス語の慣用句のひとつさえ覚えていないのに、その先生が弓削教授といい、夫人がフランス人で、名が「コレットさん」だったことは、なぜか鮮明に覚えている。

私を怒らせた「ベニヤ板盗難事件」

ある日、そんな身の入らない授業を終えて「創芸」の部室の小屋に行ってみると、間近に迫った公演の看板をつくるためにとっておいた、ベニヤ板がなくなっていた。どうして?とあちこち探していると、通りかかった三人の男子学生のなかに級友のH2(彼の名前の頭文字がH.Hだったので、H2と記すことにする)の姿を見つけ、ピンときた。
「ここに置いてあったベニヤ板。あなた、盗んだでしょ!」
「いや、盗んだなんて、そんな…!使ってもいいものだと思ったんだよ…。お前のものだって、知らなかっただけだよ…」と、モゴモゴと言い訳をしながら、自分の仕業と素直に認めるH2の態度にカッとなった。
「どうしてくれるの⁉︎ 私は公演の看板を作らなきゃならないの。早く返してよ!他人のものを盗むなんて、信じられない!」
彼を責め立てる言葉が次々と口をつき、H2はただ頭をかきかき、項垂れるばかりで、私の怒りを収める術さえ見つけられずにいるのだった。

「よく覚えてるよ。ほんとに怖い女だったよな、松井は」
あのときH2と一緒にいた男子学生の一人から言われたのは、つい最近のことだ。
H2がこの世を去った後、彼を偲んで集まった夜の酒席。学生時代の私がどんなに気の強い女で、叱られたH2がどんなに困っていたかと言われて、私がすっかり忘れていたその話を、久しぶりに思い出したのだ。

ここから先は

6,760字 / 2画像
1.映画監督松井久子と読者との双方向コミュニティに参加できる。2.ワークショップ(書くこと、映画をつくることなどの表現活動や、Yogaをはじめ健康維持のためのワークショップに参加できる)3.映画、音楽、アート、食と暮らしなどをテーマに一流執筆人によるコラム。4.松井久子が勧めるオンライン・セレクトショップ。

鏡のなかの言葉(定期購読)

¥1,000 / 月 初月無料

映画監督松井久子が編集長となり、生き方、暮し、アート、映画、表現等について4人のプロが書くコラムと、映画づくり、ライティング、YOGA等の…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?